昨日は体調が悪かった。朝からなんか変な感じがして昼には明らかに体調不良だった。具体的にどうとは言い難いがとにかくただ存在しているだけでしんどかった。夕方には明らかな頭痛が始まり夜に仕事から帰った時にはぐったりしていた。それでも22時からドゥルーズゼミがあるので参加はするつもりではいたのだが「本当に参加できるぅ?」というくらいにはしんどかった。とりあえず晩飯を食べ、立ってられないくらい疲労しているので寝転びながら「何を構造主義として認めるのか」の該当ページを眺める。この「眺める」という表現が最近のお気に入りである。「読む」ではなく「眺める」。不思議なことに眺めていたらそれがいつの間にか「読む」に変わっている。そのようにしてただ寝転びながらその日の範囲の文章を眺めていた。次気がついたときにはもう自分自身がその文章の内容について考え始めていた。そしたら頭が働きだしかつてない疲労を感じていたはずなのに、なぜかいつもより文章に集中できていることに気づく。そんなこんなでいつのまにか頭痛が収まっている。なぜかゼミが始まる頃にはいつもよりも元気になっていた。昨日のことではあるが不思議な体験だった。食後に濃い目のコーヒーを飲んだのがよかったのか?それともしんどくても目の前にやるべきことが迫っておりそれに無理やりにでも向き合って「文章を眺める」ことを始めたのが良かったのか。
ところでなぜ日中の仕事があんなにも疲労するのだろうか。それはひとつのことに集中できないということがあるのではないかと今思った。
もちろんできることなら一つのことに集中したいのだけれど、状況がそうはさせてくれない。一つのことに取り組んでいるしりからいろんなところから声がかかり、あれはどうしたらいいの、これはどうするの?と質問攻めにされる。周りの雑音にどうしても気を散らされる。そんなことをやっているうちに自分が今何をやっているのかさえわからなくなってくる。
そのような注意力の分散状態の常態化があのえもいわれぬ疲労感の原因ではなかろうかと思う。
そして疲れ切って何も考えられない状態で一日を終え、普段であればそのまま眠ってしまうところをコーヒーのカフェインで意識は覚醒され、無理やり一つの文章を「眺める」ことによって集中力はブーストされた。
つまりここから得られる教訓は一つだけ「しんどくてもやれ」だ。眠たくても本を眺めるだけでもいいからやり始めろ!立つのがしんどいなら寝転んでもいいから本を開いて文章を目で追い始めれ。
それでも無理ならあきらめて寝てしまえ。
