写真と言葉で日々を記録する。

  • 2026年10月5日


    福尾さんに影響されてWorkFlowyのアプリを入れてみた。どう使うかはこれから考える。日々の日記はObsidianで書いているしWorkFlowyは思考整理用という使い方なんだろうけど文章を書きながら自分の思考を整理するという場面が果たして私にあるだろうか。これまでやってきた哲学書の翻訳作業はObsidianで事足りている。もし使うとしたらもっとクリエイティブに自分の思考を展開させるようなイメージなのだがそのようなことが私にあるのだろうか。既存の哲学をただ模倣する、自分のなかにインプットする、自分なりにまとめるということと自分の中から出てくるものをアウトプットするということの違いはわたしにとってドゥルーズの哲学と切り離せない。ここ最近ドゥルーズを集中的に読んでいるわけだが、もっと自由にもっと既存の様式から離れて表現すること、実践することを考えている。既存の哲学を理解してそれをそのまま発信するのでは面白くない。既存の哲学を使って私なりの発信をするということ。そこにドゥルーズの哲学はフォーカスしている。

  • 福尾匠さんの480分で『千のプラトー』講義2回目を視聴した感想


    初回と比べて話される言葉の抽象度のギアが一段上がった。言葉がすんなりとは頭に入ってはこない。しかし注意して聴き返してみると抽象的な言葉は一つ残さず具体的なイメージに置き換えられていてきちんと理解できるように説明されている。とはいえ一度つかんだと思われたそのイメージも少し距離を置くだけですぐに頭から離れていってしまう。何度も何度も聴き返してそのイメージを定着させていく作業が必要になるのだろう。それだけの強度を伴った講義だと思った。
    すでにリアタイを含め2回通しで視聴した。今頭に残っているのは講義内で何度も角度を変えて説明されていた橋と川の対比のイメージである。固定点を作るなというメッセージ。流れなんだと。両者の間に流れる『流れ』によって両岸が削られ地形がならされ侵食されていくイメージ。そのようなものとしての言語の冗長性。自分なりに漠然と受け取った概念の断片を並べてみるとそんな感じになる。
    「言葉というもののもつ冗長性」を語る福尾さん自身の言葉がまさにその冗長性のもつ予測可能性を駆使した形で(まさにリゾームをその書自体の中で体現する『千のプラトー』のように)伝わってくる。
    初回の感想でも書いたが福尾さん自身の生がまさにドゥルーズの哲学をそのまま地でいっているような感じ。
    これから実際の第4プラトーをひとまず読んでみようと思う。すでに話の方向性はこの講義で明らかに示されており、今の状態でどれほど「読める」ものなのか。はたまたそれでも全然「読めない」ものなのか。まず一度原本に当たってみないことには始まらない。「いける気がする!」という感じは確かにあるし、初回の講義を聴いて「序ーリゾーム」は確かに読めた(気がする!?)。


    上島珈琲店にて午後いっぱいの時間をかけて第4プラトーを読み切った。決して読めたとは思わない(思えない)。福尾さんいわく「文字を頭に流しこむ」だけでもいいのだ。それでいいのだというオプティミズムが大切で、頭に流れ込んできた文字列はほとんど意味をなさないままに流れ去っていく。それでもいくつかの概念がところどころで講義内容を想起させる部分に出くわす。それにしてもわずかなニュアンスが掴めそうな掴めなさそうなその程度の手応えではあるのだが。おそらくそのような実感値以上のガチャガチャしたものが私のなかに流れ込んできたように思われる。これがすべての面が違うルービックキューブをガチャガチャ回しているような感覚の一端なのかもしれない。とにかく読み切ったんだというだけで不思議と充実感がある。そんな印象の一読目を終えた。
    通読できたということがなにより重要でそのことだけでもこの講座に参加した価値は十二分にあったし、通読させるだけの力が宿った講義であるということだけは確かである。

  • ドゥルーズゼミ次回への思考


    ドゥルーズゼミ前回のテーマとしては「記号界においてある一手が加わることで『全て』の配列が変化する」ということであった。

    ここで言われる『全て』とは何か?
    自分自身を外部に置き、外から全体とその部分を考えるなら(チェス盤を外から眺めているイメージ)、そこでの全体とは部分にすぎず、そのように考えていくと永遠に終わりのない(外部のない)無限を考えざるを得ない。そのような直線的にどこまでも終わりなく直線的に続いていく無限をヘーゲルは「悪無限」と言って批判してそれと対極にある「真無限(始まりと終わりが一致する円環の像をイメージさせる無限)」を立てた。

    もし「一手を加えることで全ての配列が変化する」ということの成立条件としてその「外部のない無限」が要求されるならば、あきらかにそれはヘーゲルの言う『悪無限』であり、ドゥルーズはヘーゲルのいう悪無限を想定していたことになるのか?

    それとも限定された『全体』(チェス盤を外から眺めているイメージ)つまり「外部のある全体」を想定しており、それが無限個あるようなイメージなのか?

    そのような「無限」と言う概念をめぐってもヘーゲルとドゥルーズは対立関係にあったと考えていいのか?
    まさにドゥルーズはヘーゲルの全体性とか同一性を批判したと考えると辻褄は合うし、ここでヘーゲルの無限概念と対立していること自体は辻褄が合うような気もする。

  • 2026年9月27日


    日曜日で大学図書館が休みなので初めて苦楽園にある上島珈琲店に来てみた。居心地が良すぎて永遠に作業している。そろそろ帰りたいが外は雨が降り続いておりなかなか外に出る気になれない。天気予報は翌朝までずっと降り続く予報なのでどこかで決断して外に出ないといけない。こんなに長時間いても何も言われないカフェがまだあったんだ。いい場所を見つけた。
    さてソトのガクエンに先日のドゥルーズゼミに関して長めの質問を書いて投稿した。どんな返答があるか楽しみだがあまりでしゃばりすぎないようにしないといけないなとも思う。何しろ私はすぐに調子に乗るかならな。気をつけよう。
    スピノザ『エチカ』翻訳作業も進めた。第一部定理17の見直し作業も一通り終わり。あとはブログ記事作成を残すのみとなった。定理17長かったなぁ。やっとここまで漕ぎ着けた。こんなペースでいつか訳し終えることができるのだろうか。いつか何かを成し遂げることができるのか。何かを作り出すことができるのか。わからないがとにかくできることをやるしかない。流石に疲れたしそろそろ帰ろうか。びしょびしょになるなぁ。

  • 2026年9月23日


    『千のプラトー』「1 序ーリゾーム」を昨日から今朝にかけて通読した。福尾さんの講義のおかげで大枠の方向性がわかっているので、なんとか話の流れを掴んだまま読み終えた。ある知らない固有名詞が出てきた時にそれをひとまずXとかYと置いて、それぞれが何か他の概念と対立構造にあり、それらに対して何らかの価値判断がなされているんだ、と思いながらとりあえず読み進めるということ、そういった構造を意識しながら読むだけでもこれまでとは全然違う読み方ができるということを知った。これは全ての読書において応用できるな。
    また「読む」ということに対してのハードルを上げないということ、本を「眺める」くらいの意識でいいんだ、ということを哲学研究者のリアルな発言として聞くと説得力がある。というか「それでいいんや〜」と気持ちが軽くなった。「本を読む」ではなく「本を眺める」という表現はすごく好きだ。別に理解できなくてもよくて好きな本をただ眺めているだけでもいいんだ。それなら私にも難しいけど読みたい本を眺めることから始めることができる。「理解しなければ読んだことにはならない」という固定観念自体がある種ツリーとしての読書なのではないか。リゾームとしての読書は「本を眺める」うちにその中の言葉や概念が全く別のなにものかと接続して線が引かれることにあるのではないかと思った。

    大学図書館にて第3回ドゥルーズ『差異と反復』ゼミの予習をした。第二の規準を精読していくと特に「循環」という言葉が気になった。「無意味は構造内部を循環しながら、意味に値を与え意味を産出する」これだけ読むと特定の無意味な何かが構造(記号界)内部を循環することで常に意味が産出され続けているようなイメージ(空白のマス目、スライドパズル)を持ったがそれで合ってるのか?それとも特定の何かの循環を想定するのではなく「新たな素材の追加(あるいは削除)がそのつど全体のありようにフィードバックされる素材と素材の外在的関係の操作=アレンジメントのことを言っているのか、わからなかったので次回の勉強会で質問してみようと思う。

  • 2026年9月22日


    朝から大学図書館で翻訳作業。
    スピノザ『エチカ』第一部定理16、17をひと通り訳し終えたので、抜けや間違いなどないか定理16の始めから見直し作業を行った。今回から訳のスタイルを大きく変更した。これまでは日本語として意味のとりやすい訳を心がけていたが、今回からラテン語の語順にできるだけ忠実に「戻らない訳」を意識して意味の切れ目で「|」の記号を入れてあくまでもラテン語で『エチカ』を読むということにフォーカスしてみた。見直していて思ったがこちらの翻訳スタイルのほうが以前よりはるかに文の構造をとりやすい。
    でもそう思うのは自分で翻訳したからで、初学者がこれをみたら余計にややこしく読みにくいものになっているのかもしれない。とはいえ自分としてはこちらの方が見直しもしやすく、よりいい気がするのでこれからはこの「戻らない訳」のスタイルで訳していこうと思う。いつか『エチカ』一周全部訳し終えたら二周目でさらに解説を追加したり、「日本語として読みやすい訳」と「ラテン語の語順に忠実な戻らない訳」の両方を載せられるといいなと思う。どれくらいかかるかな。5年くらいで一周終わるといいんだけど、どうかな。まあ焦らずマイペースにやっていけばいつかは終わるやろ。

  • ドゥルーズ『差異と反復』ゼミ第3回目の感想


    昨日はドゥルーズ『差異と反復』ゼミ第3回目だった。
    仕事もハードな1日だったので疲れていて9時前くらいに結構な眠気で大丈夫かって感じでスタートしたら、案の定ピンマイクの設定をミスって最初5分くらい聞き逃す。しかも会話にログインした時挨拶も返せずめっちゃ感じ悪い奴になってしまってテンパる。
    設定をやり直したらやっと音声が聞こえてきた。「第二の規準:局所あるいは位置」に入ったあたりから正気を取り戻した。
    こういう講義を受けている時は昔からそうだがいつも意識が色んなところに彷徨い出てしまう。そのたびに今現在に自分を引き戻す。事前に質問しようと考えていたところまではその質問のことも気にしつつ、今現在の話にも注意を払う。マルチタスクが苦手な私にはきつい。しかしリアルタイムに脳をフル稼働させていたらいつのまにか眠気も消えていた。このような緊張感とともに哲学に立ち向かうのは初めての経験なので新鮮である。
    こういうウェブ上での勉強会に参加するのはりきにうすさんのラテン語勉強会以来2回目になるが、参加者同士の距離感というかその会自体の進行って考えさせられるものがあるよな。
    やはり対面には遠く及ばないというか、私も何度か質問して思ったが、話していてだれも相槌を打ってくれないとかなり場違いなことを発言しているような気持ちになってすごく不安になる。小林先生も「もっとフランクに話してくれていい」と言っているのはどうしても一方的な講義みたいになってしまうことを恐れてのことだろうと思うがなかなか難しい。昨日も参加者自体は10人くらいはいたのかな?それでも発言していたのは私を含め2、3人という感じだった。そういうものなのかもしれないが。
    講義と銘打っているものはいいとしても、このような共に学ぶという名目のものに関してはどのような形が理想なのだろう。知識量から考えてもどうしても主催者の小林先生がメインで話すことにはなるし、私自身は少なくとも小林先生の話を聞きたいと思って参加している。質問に関してもなんとかしてより深い話を小林先生から引き出してやろうと思って内容を考えている部分がある。つまり圧倒的に参加者である私は知識を享受する側でしかなく、知識を提供する側にはもちろんなれない。有料の勉強会であるという性質上それはそれで正しい形なのかもしれない。この会を私自身にとってより実りあるものにするためにできることは、テキストを読み込んでから参加すること、シンプルに疑問に思ったことを臆さず質問をすること、今のところそれくらいだが、これを続けていけば確実にドゥルーズに近づけるという確信はある。そこまでこの勉強会が続けばいいのになと思う。

  • 2026年9月21日


    朝からまたお金のことで妻と揉めて疲れてしまった。妻も日に日に痩せていっていてとても疲れているようにみえる。ただ一緒に楽しく穏やかに暮らしたいだけなのだがどうしてもそれができない。かといって別れることもできない。お互いにしんどいしどうしたらいいのかわからない。ずっとそれを繰り返している。

    大学図書館に来てはみたものの何にもやる気が起きない。中谷 碩岐さんの「ジャック・デリダ入門講座」の第三回をぼーっと眺めた。一回では頭に入らず二回観た。ソトのガクエンに入ってからポストモダンの哲学者に触れる機会が一気に増えた。デリダもドゥルーズもなんか似てるところがあるように思える。その心は一般的な基準とか考え方のもう一歩メタ的な視点、より根源的な構造を解き明かそうとする試みと言ってもいいのではないか。デリダはデカルトをフィンクをフッサールを、ドゥルーズはレヴィ=ストロースやラカンなどの構造主義者を研究してそのさらに奥深くに隠された構造は何なのかということを自身の哲学で探究した。そのようなイメージを持つことができただけでも私にとっては大きな収穫である。

    何となく手に取ったヘーゲル全集版『論理学』と武市訳『大論理学』見比べたりしてたらなんとなく時間がつぶれた。ヘーゲル全集版『精神現象学』もチラ見してたらめちゃくちゃ欲しくなった。

  • 2026年9月20日


    朝から思いつきでYoutube動画をローカルにダウンロードする環境を構築したいと思ってその作業をチャッピーと一緒にしてた。初めてまともにMacのターミナル使ってみたけどすごいねこれは。二時間くらい試行錯誤して一瞬で動画をダウンロードできる環境が整ったので満足。ついでにiPhoneでラジオ的に聴く用の音声ファイルに変換するツールも作成した。これでオフラインでもいつでも講義を視聴できる。いい時代になったもんだ。
    そのあとは『千のプラトー』の河出文庫版を探す旅に出てなんか意地になってしまって宝塚のブックファーストからの三宮と堂島のジュンク堂をハシゴしてなんとか入手した。上巻は奇跡的に宝塚に在庫が残っていて、中・下巻は別にAmazonでも買えたけど私の変なこだわりとして、以前からできるだけ実店舗に自分で出向いて買いたい派なのだ。その本との出会いも含めてできるだけ固有の経験にしておきたいという感じ。めんどくさい人間だよホント。もっとカジュアルに生きられたらいいのになとはたまに思う。

  • 福尾匠さんの480分で『千のプラトー』講義初回視聴した感想


    福尾匠さんのドゥルーズ、480分で『千のプラトー』講義初回視聴した。熱のこもった講義だった。二時間をゆうに超えてぎっしりと『千のプラトー』読解の要点が余すところなく語られていた。今日1日iPhoneに音声を入れてラジオ的に聴いていた。これからも何回も聴きたくなるだろう。私が知る範囲での福尾さんの活動とドゥルーズの哲学を重ね合わせると納得感があるというか、まさに自身の人生でそのリゾームとしての哲学を実践しているんだなということがよくわかった。
    ひるがえって私の人生はどうか。あまりにも「定住」的ではないか。住む場所も仕事も趣味も家庭も変わり映えしない。同じことの繰り返しのような毎日。それでもどんなに「定住」的なものの中にも「遊牧」的な要素が隠れているという。たしかに外在性のアレンジメントは考え方次第でいろいろなところに見出せるかもしれない。固定観念とか役割とか「〜すべき』とか自分を縛るものから一旦自由になること。それが「n-1」で生きるということ。超越的なものを切り落とすこと。私はおそらく「ありもしないもの」にとらわれすぎているのだろうということはわかった。しかしじゃあ具体的にどうしたらいいのかということはまだ見えてこない。やみくもになんでも手を出せばいいということでもない。それではひげ根的となり真にツリー構造から抜け出すことはできないということだ。
    引き算の美学的なこと?いや単に引けばいいってもんでもなさそう。自分の置かれた状況のなかで何が「頭」なのかを見極めること、そしてその「頭」を切り落とすということが大事なんだ。
    その切り落とすべき「頭」的なものはもしかしたら「今自分がしている仕事」とか「妻との結婚生活」とかいった具体的なものではなく、もっと象徴的なものとして自分の生活のA面ではなくB面にあるのではないかという気がした。
    つまりこの前『差異と反復』ゼミで学んだように、想像界と現実界と明確に区別される記号界のなかに隠されてあるのではないか。
    しかしなにが自分にとっての「頭」なのかが仮にわかったとして、それを実際に切り落とすことは恐怖心を伴い、勇気が必要になるのかもしれない。
    とにかくおもしろかった。いつまでも聴いていたかった。1000分に拡大されたらめちゃくちゃうれしいだろうな。
    ドゥルーズに少しでも興味がある方には受講をオススメしたい。
    次回も楽しみである。

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