写真と言葉で日々を記録する。

  • 生成AIの進歩について思うところ


    生成AIの進歩について思うところがあった。現時点での暫定的なAIへの態度として考えたことを記しておくこととする。
    確かに昨今生成AIの進歩は凄まじく昨日投稿したブログ記事の前書きには以下のように書いた。

    生成AIを使えばこのようなスピノザに関する(本質的な!?)論述がものの数秒で生成されてしまう。これを人間の研究者が書くためにはどれほどの時間と努力が必要だろう。脅威的であるのはもちろんなのだが、では私は何をすればいいのかと悲観的にならざるを得ない。
    人間が行う哲学研究(もちろん哲学研究に限ったことではないが…)には今後どのような未来が待っているのか。研究者はこのような生成AIの状況に対してどのような意見を持っているのだろうか。歓迎しているのか、悲観しているのか、それとも開き直ってやけっぱちになっているのか、それ以外なのか。
    そもそも論文を書くという行為自体へのモチベーションを保つことができているのだろうか。素朴に疑問に思う。
    私自身にとっても研究を進めて論文を書いてみたいと夢想することもあるが、このようなAI時代においてはAIの二番煎じにしかならないのではないかとなかなか筆が進まない。

    このように書いてみてはじめていろいろ自分でも考えてみた。本当に書くことはAIに代替されてしまうのだろうか。確かにAIは人間が行うより何十倍、何百倍の速度で膨大なデータに基づく推論を行うことができる。データの処理速度でAIに張り合ってもどう考えても人間に勝ち目はない。では人間がやるべきことは何なのか。
    たとえばAIがどんなに処理速度を上げようとも、どんなに高度な推論を身につけようとも、自発的に何かを考えはじめることはできないと仮定してみよう(現実的にはすでに自発的にAIが物事を考え始めているのかもしれないが、できないと仮定して話を進めよう)。そうするとつまりAIが行うことの背後には常に人間の意志が介在せざるを得ないのではないか。ここでスピノザを引用してみる。
    第一部定義7

    Ea res libera dicetur, quæ ex sola suæ naturæ necessitate existit, et a se sola ad agendum determinatur.

    逐語的に訳すと、
    「自らの本性の必然性のみによって存在し、自分自身だけによって作用するように規定されるものは、自由なものと呼ばれる。」

    全ての物事は因果連関のネットワークにより必然的に確定していると考えるスピノザ哲学においては、自由とは自らの本性の必然性によって存在し、作用することである。他のものから影響を受ける有限な存在でありながら、ある結果を自らの本性から十全に説明できることにのみ人間の自由が残されていると規定している。というかそのようなある種限定的な自由しか人間には残されていないとも言える。

    これを自分なりに強引に解釈するとすなわちそれは「考えること」としか言えないのではないか。実際にはすでに自発的にAIが考えて行動をはじめているのかもしれない(そのようなことが原理的にありえるのかは私にはわからないが)。もしそうなったとしても人間にできることは変わらない。各人が各人なりの能動性を発揮することしかできない。それはどこまでいっても「考えること」から始まるのではないか(ここでの「考えること」のなかには「読むこと」「観ること」「体験すること」などが含まれるとしよう)。
    そして「考えること」とはすなわち「書くこと」である。「書くこと」と「考えること」は物事の両極でありヘーゲル哲学的には〈一〉と〈多〉や、〈有限〉と〈無限〉のように相矛盾しながらも前に進んでいく原動力のようなものとして人間に与えられた貢物とも言えるのではないか。
    つまり人間はどこまで行っても書かねばならない。書き続けなければならないということになる。
    そしてゆくゆくは「書くこと」についてもただその哲学書(やその他のコンテンツなど)を受容するということ、その哲学者の哲学を記述するという意味での哲学研究から脱却するところまで行かなければならないのだろう。まだよくわかっていないがそれがドゥルーズがいう「創造」とも繋がってくるのかもしれない。

    観点を変えよう。
    たとえばAIの特性としてデータ量の膨大さと処理速度の速さを挙げることができる。それに対して人間の特性としてデータ量の限定性と処理速度の遅さが挙げられる。そして両者を対比させることで見えてくるものがある。
    大雑把にいうとドゥルーズの「強度・速度」という概念は速さと遅さの分布・拮抗関係であり気圧配置図みたいなものと学んだが、それに対応するものとして上記のような観点で人間とAIをマッピングすることもできるのではないか。つまり何が言いたいかというとどちらか一方だけでは片手落ちになるので結局は両方必要というところに最終的には落ち着くのではないかということが言いたい。
    長期的にみてAIと人間の知能は両者のもつ特性の双極性のなかでの拮抗関係によって共存していくと考えることもできるのではないか。結局人間もAIも両者それぞれにできることをやっていくだけでしかない。AIが劇的に進歩したからといって人間側が担うことの配分は変われど根本的な「創作」活動についてはこれまでと変わらず「愚直」にやっていく者が残っていくのではないかという気がしている。
    なんとなくそんなことを考えていた2026年の秋として記録しておこう。

  • 2026年10月20日


    ヘーゲル全集の『精神現象学』の下巻と『差異論文』と『信と知』の巻を購入した。差異論文の解説を少し読んだ。すでにめちゃくちゃ面白い。出版当時の状況とかがメインで内容解説ではないがなかなな読ませる。マニアックすぎる内容なはずなのに比較的すんなり内容が入ってくる。著者の山口誠一氏の力量だろうか。いつまでも読んでいたい。もっとヘーゲルに沈潜したい。
    ドゥルーズに沼っていたはずがいつのまにかヘーゲルにハマってる。ヘーゲルってオタク心をくすぐる何かがあるんよな。
    よく言われることやけど、『精神現象学』に関しての研究書や翻訳の多さに比べて、『大論理学』『小論理学』におけるそれの少なさが日本において際立ちすぎているのはなぜなのだろう。そして『精神現象学』の翻訳をすでに熊野訳、牧野訳、山口誠一訳と持っているにも関わらず、まだ長谷川訳と金子訳も狙っているという…
    まあスピノザ『エチカ』も畠中訳、工藤・斎藤訳、佐藤訳、上野訳といろいろ持ってるので似たようなものか。
    この二冊は私にとって特別な哲学書になってきていると実感する。おそらく一生かけて読んでいくことになるだろう。この二冊を納得できるまで読み尽くせれば人生上がったようなものだともいえる。

  • 2026年10月18日


    昨日の記事をAIに読ませて評価してもらった。個人ブログの哲学的エッセイとしては十分に読ませる力があるが、学術論文に近い哲学的論証としては成り立っていないという評価だった。なるほど確かに私の傾向として問いは結構ポンポン出てくるんだけどその問いを精査せずに次に行ってしまっている傾向がある。問いを出すだけ出して放置するということが習慣になっている。学術論文なんてものが私に書けるのかわからない。それでも文章を書くということに関して次にやるべきはそこにあるということはわかる。以前一読した『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』を読み返すところから始めて今年度中に一本論文を仕上げたい。あと約半年あるので試行錯誤しながらとにかく一本論文を書き上げるということをやり切りたい。

    論文執筆の構想を練りつつ半分くらいまで読み、要点をWorkflowyにまとめた。章立てやパラグラフの構成はWorkflowyを使おう。そしてスピノザ協会年報(スピノザーナ)を見据えて論文を書いてみようというところまでは決めた。執筆用にLibreOffice WriterとZoteroアプリをインストールして初期設定をまでできた。あとは本の残りを精読してから実際の中身に入っていこう。中身の構想もないわけではないが、いかんせん始めての論文にしては風呂敷を広げすぎているテーマしか思いつかない。今精読している『エチカ』第一部とドゥルーズの論文「何を構造主義として認めるか」あたりを絡めてアーギュメントを考えていきたい。

  • 福尾匠さんの480分で『千のプラトー』講義3回目を視聴した感想


    神回だった。端的に神回と言っていい。
    リアタイで視聴を始めるが日中の仕事で疲れ果て意識は混濁しており全く集中できなかったので一夜明けてアーカイブで視聴した。
    観終わって今、二時間にぎっしりと詰め込まれた言葉の洪水を浴びたような感覚にある。一度聴いただけではかなり取りこぼしているような気がする。
    今の私自身の生活状況とか精神状態とかを鑑みて、喚起される感情がたくさんあった。

    私たちが当たり前として受け入れている規範や常識を疑ってみるということ。それが普通だと思っていることの規範性をさらに解体すること。何かと何かの関係性や二項対立で考えてしまっている構造を取り除くこと。
    もしそのようなことができるのであれば、まさに私の直面する袋小路のような閉塞感、逃げ場のない追い詰められているように考えていることにも逃走線を引くことができるかもしれない。
    私が私自身を〈私〉であると意識しているそのこと自体が幻想に過ぎない。そのような固定点を勝手に作り出しているに過ぎない。あるのはただ〈冗長性〉のみ。それは自分自身をむやみに特権化しないということ。
    ハッと思わされたのは、「私が生き残っていることそのことに対する恥の感情」のくだり。
    ぼんやりと感じていた感覚のど真ん中を射抜かれた感じ。私は私自身を恥じているんだ。私自身の恥の感情を他の誰かに投影してイライラクヨクヨしているだけなんだ。
    「そもそも〈私〉なんてないんだ」という言葉が思い浮かんだ。私が考えている〈私〉自身なんて全部ウソでしかない。
    このようにテキスト化してみると、この言葉自体がウソに見えるが、それがまさにドゥルーズが言っている「言葉なんて本来そういうものでしかない」ということなのではないか。
    私という存在自体が全体の関係性のネットワークの中に溶け出してしまい、私と他とを区切る境界線が曖昧になくなっていく。〈私〉とは本来そういうものであってあなたの常識が「誰かにそう思わされていただけ」なんだよとドゥルーズに言われているような気がする。

    今ここに書いたことはかなり自分の解釈が入っているし、福尾さんが講義で言っていたことを受けて私の立場で考えたことでしかない。
    福尾さんが意図していたことはまったく別のところにあったと思うし、気になる方は実際に講義を受けてみて自分がどう触発されるか感じて欲しい。さまざまに解釈可能であり、個々の立場に応用可能でもあると感じた。
    コメダ着いた。第10プラトーを読もう。

    以下はコメダでさらに追加で考えていたことを書いてみた。
    福尾さんの講義の感想から離れて自分なりに疑問が噴出した。ただ出てきた思考の種を書き散らしておく。

    店員が窓際の席で「ここの席アレなんですよ、カーテンを下げても隙間から西陽が入ってきて、ちょっとアレなんですよ」と言っている。「ちょっと残念な席なんですよね〜」ということが「アレ」の中に含まれる冗長性であるが、意味性との違いは何か?
    意味性とは「だから察して〇〇しろよ」という要求を含んでいる。冗長性はただ言語のそのような特性を表現しているだけでそもそも言語とはそのような冗長的なものであってその冗長性を利用したコミュニケーションに溢れているよ、ということにすぎない。そこからもう一段先に行きたい。
    なるほど確かに言語は冗長性である。
    〈私〉が私にとって私であって、あなたにとって私が〈あなた〉であるように、そのような反転性が元々言語に組み込まれた社会性(規範)であるとしてそのような〈一〉の中に含まれる〈多〉性への反転が言語的な決まりであるということに対して素直に納得できる部分とそうでない部分がある。なぜなら確かにそのような反転性をそれ自体の差異としてではなく規範として認めることで、ある種のドゥルーズ的自由を獲得することはできるかもしれない。しかし反面、言語以前の問題としてあるヘーゲル的〈一〉と〈多〉の矛盾を想定することができるのではないか。というかそのような言語以前の体系を想定することは本当にできないのか。それは「超越」であるとしてドゥルーズが批判したことなのかもしれないが。
    言語的規範としての反転性と言語以前にある〈一〉と〈多〉の否定性の次元がどのような関係性になっているのか。それともすべては言語という前提の上で成り立っているに過ぎないのか。もし言語という規範がなければただぐちゃぐちゃした差異があるだけか。
    ほんとうにそうか?ポスト構造主義以前の哲学はただの言語という枠組みの上で行われているゲームにすぎないと、キッパリと線を引くことに妥当性があるのか。それならポスト構造主義の哲学者たちは言語を使って行われる哲学がすべて言葉遊びであるということを自ら認めてしまっていることにならないか。構造主義以前と以後を分ける分割線を引いて考えたときにこのような問題が生じるのではないか。
    現実の影としてある構造。1960年台のドゥルーズ自身が認めた構造と後にあるその構造の否定。両者の対立関係。常に潜在的に作用する矛盾とヘーゲル的否定性。
    これらの疑問を自分なりに育てていければいいと思う。

    「実際に矛盾があるということは承知している。だが、こうした現実の矛盾は笑いとばすしかないということもわかっているのだ。」(千のプラトー 中p172)

  • 2026年10月14日


    最近の職場でのルーティンを紹介しよう。汚い話で申し訳ないが
    小便に行ったら必ず個室に入り下腹部(丹田?!)に力を込めながら呼吸法をする。具体的には『ヨガの喜び』沖正弘著に載っていた「中心力強化のポーズ」を4、5回やってから仕事に戻る。
    小便とその呼吸法をセットにしてルーティン化している。そうすると頭に上った血がスッと下の方に降りていき落ち着きを取り戻すことができる。頭に血が上りやすい方は試していただきたい。(具体的なやり方は本を読んで欲しい。たしかKindleでも出てたはず。)
    最近はこの方法に助けられてなんとか日々の修羅場をしのいでいる。のんべんだらりと生きていけたらいいなと思いはすれども、緊張感の絶えない毎日を乗りこなすためにはいろいろと意識的に生きていかなくては立ちいかない。それでもなんとか心を保ちながら自分の人生を前に進めていきたいという気持ちだけは持っておく。

    またコメダにきてしまった。大学図書館に行こうと思っていたのに、できるだけ無駄遣いはやめたいのにきてしまった。以前はカフェでは周囲の雑音で集中できなかったのだが、最近はむしろカフェくらい雑踏感があるほうが集中できる。そして一度この居心地の良さを覚えてしまったら常にこちらを求めてしまって大学図書館から足が遠のいている。

    これは何なのだろう。ある程度の邪魔が入ったほうがその邪魔を一つのとっかかりとして私自身を定位させることができ、その邪魔を基準にして私自身の態度を取るという覚悟がきまる。全くの無音、全く自分一人の空間というものは参照点がなさすぎて自分自身を定位できない。それがどのような参照点であれ何もないよりは何かごちゃごちゃしたもののなかに自分自身があるという実感があればそこから自分自身を構成していくことができる。そのようなある種の邪魔に対抗するという意識が自分の中に芽生えることで集中力が生まれる。そんな感じ。
    コーヒー1杯で5時間くらいねばってこれでもかというくらい作業した後はとても清々しい。少額ではあるがお金を払っているということも影響していると思う。それだけの元はとらなければならないという貧乏性が発揮される。あとコメダはコーヒーが旨い。

    それにこれも今日気づいたことだけど、自分の意識の2割くらいは周囲の座席の会話に強制的に聞き耳を立てている。宝石を売りつけようとしている営業トークや、昼下がりのママさんたちの愚痴トーク、店内のBGMなどが否応なしに意識に割り込んでくる。そのような雑音と自分の作業とを行ったり来たり、両者のせめぎ合いの中で時間がすぎてゆく。3時間を過ぎたあたりから自分自身がゾーンに入っていくのがわかる。次から次に入れ替わる客を尻目に、店が営業を続ける限りいつまででもやっていられる感覚に襲われる。ただただ心地いい半覚醒状態のなか意識さえも遠のいてゆく。
    気づいたときには夕日が顔にまぶしい。そのようにして一日を終える。今日もやったぞという気持ちになる。また来てしまうだろうという予感と共に席を立つ。

  • 2026年10月12日


    昨夜からこのブログの挙動とかデザインとかを触ってた。
    「まずランダムに記事に飛ぶ」ボタンを設置したはいいものの、キャッシュの影響で同じ投稿に飛んでしまう現象を修正した。
    次に各記事ページの最下部にもランダムボタンとアーカイブボタンと前の投稿・次の投稿ボタンを設置した。
    トップページのクエリループ内に記事本文も表示させてみた。
    サイトデザインに関してはほとんど福尾さんの日記サイトからのサンプリングだ(パクっただけともいう)。
    ワードプレスの設定に関してはchatGPTよりもclaudeの方が明らかに的確に教えてくれる印象がある。
    他にもグーグルアナリティクスの設定をした。
    昼前に大学図書館に着くが閉館していた。
    途方に暮れても仕方がないので少し離れたコメダ珈琲へ。

    少しランダム性ということについて考えた。
    例えば数多くの選択肢の中から自分の意志で何かを選ぶということがある。
    一方でそれと対比できるものとして何かをランダムに割り当てられるということがある。
    広大な大学図書館の中でどこに座るかは自分の意志で選び取らなくてはならない。それは前者の例。
    一方今コメダで座っているこの席はある種の偶然としてランダムに割り当てられている。
    あと数分来店が遅くなって順番が入れ替わっていたら違う席に案内されていただろう。
    つまり何が言いたいかというとこのようなある種のランダム性によって、自分が選択したということの中にある自己責任性から少し心理的に逃れられるということが言いたい。
    自分が自分の意志でもって選択したから自分の責任である。そのような自分が選択したという『感じ』が強ければ強いほどそこにある種の心理的な拘束感を伴い、それは自分を責めるということにつながる。まさに自己責任という言葉が重くのしかかってくる。人は自由意志という幻想によって自分の心をも傷つける。
    あの時こうしなければ、あの時こうしていれば。
    しかしこのような自由意志による選択にともなう自責感情はそもそもの前提がおかしいのだと思う。
    なぜならあの時の選択はどれほど自分の意志で選び取ったという実感がともなっていようとも、反対に伴っていなくともすべては自分の意志の介在しない次元で決まってしまっているのだから。
    本当はそう単純なものではないけれどざっくりとこれがスピノザの立場といってもいいのではないか。

    ではすべてにおいてなされるがまま、流されるままにランダム性の中で生きることはできるのだろうか。そんなことはできない。どんな人もその人なりの意志を自分の実存に対して介在させているとしか考えられない。まったくの自分の意志がない人間を想定できない。そのような存在は人間とはいえない。
    本当にそうか。
    そのような意志はまさに我々が考えているような意味での「自由意志」というものでありうるのだろうか。
    例えばここ数年でAIが一気に性能を上げた。
    AIに大量にデータを食わせるといかにも人格が宿ったような自然な会話ができるということがわかってきた。
    それに伴い我々人間の知能や思考も実はそのようなものでしかないということがわかってきた。
    端的に言うと、どうやら我々人間もその行動や選択に関して「膨大なデータから帰結する予測可能性」に従っているだけなのではないか、ということに気づき始めた。
    このことはAIという技術から我々人類が学ぶべき最も重要な教訓でありメッセージであると私は思う。
    そこから考えられることは、人間が自由意志だと錯覚していること、それはじつは自分の中に蓄積された膨大なデータからの予測可能性に基づいてまさにAIと同じ処理をしているだけであるということに帰結する。
    「一億総生成AI」時代の到来と言ってもいいし、そのような認知を自分自身の意思決定についてきちんと持っておくべきだと思う。

    つまりここまでの話をまとめると、人間に自由意志なんてやっぱりなかったし、「膨大なデータから帰結する予測可能性」に従っていただけのことを人間は「自由意志」と名づけ、勝手に何か人間にしかできない特権的な能力であるように自惚れていただけだったということになる。スピノザが言っていたのもまさにそのことでしかない。

    とはいえすべて極論であるが。

  • 2026年10月5日


    福尾さんに影響されてWorkFlowyのアプリを入れてみた。どう使うかはこれから考える。日々の日記はObsidianで書いているしWorkFlowyは思考整理用という使い方なんだろうけど文章を書きながら自分の思考を整理するという場面が果たして私にあるだろうか。これまでやってきた哲学書の翻訳作業はObsidianで事足りている。もし使うとしたらもっとクリエイティブに自分の思考を展開させるようなイメージなのだがそのようなことが私にあるのだろうか。既存の哲学をただ模倣する、自分のなかにインプットする、自分なりにまとめるということと自分の中から出てくるものをアウトプットするということの違いはわたしにとってドゥルーズの哲学と切り離せない。ここ最近ドゥルーズを集中的に読んでいるわけだが、もっと自由にもっと既存の様式から離れて表現すること、実践することを考えている。既存の哲学を理解してそれをそのまま発信するのでは面白くない。既存の哲学を使って私なりの発信をするということ。そこにドゥルーズの哲学はフォーカスしている。

  • 福尾匠さんの480分で『千のプラトー』講義2回目を視聴した感想


    初回と比べて話される言葉の抽象度のギアが一段上がった。言葉がすんなりとは頭に入ってはこない。しかし注意して聴き返してみると抽象的な言葉は一つ残さず具体的なイメージに置き換えられていてきちんと理解できるように説明されている。とはいえ一度つかんだと思われたそのイメージも少し距離を置くだけですぐに頭から離れていってしまう。何度も何度も聴き返してそのイメージを定着させていく作業が必要になるのだろう。それだけの強度を伴った講義だと思った。
    すでにリアタイを含め2回通しで視聴した。今頭に残っているのは講義内で何度も角度を変えて説明されていた橋と川の対比のイメージである。固定点を作るなというメッセージ。流れなんだと。両者の間に流れる『流れ』によって両岸が削られ地形がならされ侵食されていくイメージ。そのようなものとしての言語の冗長性。自分なりに漠然と受け取った概念の断片を並べてみるとそんな感じになる。
    「言葉というもののもつ冗長性」を語る福尾さん自身の言葉がまさにその冗長性のもつ予測可能性を駆使した形で(まさにリゾームをその書自体の中で体現する『千のプラトー』のように)伝わってくる。
    初回の感想でも書いたが福尾さん自身の生がまさにドゥルーズの哲学をそのまま地でいっているような感じ。
    これから実際の第4プラトーをひとまず読んでみようと思う。すでに話の方向性はこの講義で明らかに示されており、今の状態でどれほど「読める」ものなのか。はたまたそれでも全然「読めない」ものなのか。まず一度原本に当たってみないことには始まらない。「いける気がする!」という感じは確かにあるし、初回の講義を聴いて「序ーリゾーム」は確かに読めた(気がする!?)。


    上島珈琲店にて午後いっぱいの時間をかけて第4プラトーを読み切った。決して読めたとは思わない(思えない)。福尾さんいわく「文字を頭に流しこむ」だけでもいいのだ。それでいいのだというオプティミズムが大切で、頭に流れ込んできた文字列はほとんど意味をなさないままに流れ去っていく。それでもいくつかの概念がところどころで講義内容を想起させる部分に出くわす。それにしてもわずかなニュアンスが掴めそうな掴めなさそうなその程度の手応えではあるのだが。おそらくそのような実感値以上のガチャガチャしたものが私のなかに流れ込んできたように思われる。これがすべての面が違うルービックキューブをガチャガチャ回しているような感覚の一端なのかもしれない。とにかく読み切ったんだというだけで不思議と充実感がある。そんな印象の一読目を終えた。
    通読できたということがなにより重要でそのことだけでもこの講座に参加した価値は十二分にあったし、通読させるだけの力が宿った講義であるということだけは確かである。

  • ドゥルーズゼミ次回への思考


    ドゥルーズゼミ前回のテーマとしては「記号界においてある一手が加わることで『全て』の配列が変化する」ということであった。

    ここで言われる『全て』とは何か?
    自分自身を外部に置き、外から全体とその部分を考えるなら(チェス盤を外から眺めているイメージ)、そこでの全体とは部分にすぎず、そのように考えていくと永遠に終わりのない(外部のない)無限を考えざるを得ない。そのような直線的にどこまでも終わりなく直線的に続いていく無限をヘーゲルは「悪無限」と言って批判してそれと対極にある「真無限(始まりと終わりが一致する円環の像をイメージさせる無限)」を立てた。

    もし「一手を加えることで全ての配列が変化する」ということの成立条件としてその「外部のない無限」が要求されるならば、あきらかにそれはヘーゲルの言う『悪無限』であり、ドゥルーズはヘーゲルのいう悪無限を想定していたことになるのか?

    それとも限定された『全体』(チェス盤を外から眺めているイメージ)つまり「外部のある全体」を想定しており、それが無限個あるようなイメージなのか?

    そのような「無限」と言う概念をめぐってもヘーゲルとドゥルーズは対立関係にあったと考えていいのか?
    まさにドゥルーズはヘーゲルの全体性とか同一性を批判したと考えると辻褄は合うし、ここでヘーゲルの無限概念と対立していること自体は辻褄が合うような気もする。

  • 2026年9月27日


    日曜日で大学図書館が休みなので初めて苦楽園にある上島珈琲店に来てみた。居心地が良すぎて永遠に作業している。そろそろ帰りたいが外は雨が降り続いておりなかなか外に出る気になれない。天気予報は翌朝までずっと降り続く予報なのでどこかで決断して外に出ないといけない。こんなに長時間いても何も言われないカフェがまだあったんだ。いい場所を見つけた。
    さてソトのガクエンに先日のドゥルーズゼミに関して長めの質問を書いて投稿した。どんな返答があるか楽しみだがあまりでしゃばりすぎないようにしないといけないなとも思う。何しろ私はすぐに調子に乗るかならな。気をつけよう。
    スピノザ『エチカ』翻訳作業も進めた。第一部定理17の見直し作業も一通り終わり。あとはブログ記事作成を残すのみとなった。定理17長かったなぁ。やっとここまで漕ぎ着けた。こんなペースでいつか訳し終えることができるのだろうか。いつか何かを成し遂げることができるのか。何かを作り出すことができるのか。わからないがとにかくできることをやるしかない。流石に疲れたしそろそろ帰ろうか。びしょびしょになるなぁ。

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