2026年10月12日

昨夜からこのブログの挙動とかデザインとかを触ってた。
「まずランダムに記事に飛ぶ」ボタンを設置したはいいものの、キャッシュの影響で同じ投稿に飛んでしまう現象を修正した。
次に各記事ページの最下部にもランダムボタンとアーカイブボタンと前の投稿・次の投稿ボタンを設置した。
トップページのクエリループ内に記事本文も表示させてみた。
サイトデザインに関してはほとんど福尾さんの日記サイトからのサンプリングだ(パクっただけともいう)。
ワードプレスの設定に関してはchatGPTよりもcloudeの方が明らかに的確に教えてくれる印象がある。
他にもグーグルアナリティクスの設定をした。
昼前に大学図書館に着くが閉館していた。
途方に暮れても仕方がないので少し離れたコメダ珈琲へ。

少しランダム性ということについて考えた。
例えば数多くの選択肢の中から自分の意志で何かを選ぶということがある。
一方でそれと対比できるものとして何かをランダムに割り当てられるということがある。
広大な大学図書館の中でどこに座るかは自分の意志で選び取らなくてはならない。それは前者の例。
一方今コメダで座っているこの席はある種の偶然としてランダムに割り当てられている。
あと数分来店が遅くなって順番が入れ替わっていたら違う席に案内されていただろう。
つまり何が言いたいかというとこのようなある種のランダム性によって、自分が選択したということの中にある自己責任性から少し心理的に逃れられるということが言いたい。
自分が自分の意志でもって選択したから自分の責任である。そのような自分が選択したという『感じ』が強ければ強いほどそこにある種の心理的な拘束感を伴い、それは自分を責めるということにつながる。まさに自己責任という言葉が重くのしかかってくる。人は自由意志という幻想によって自分の心をも傷つける。
あの時こうしなければ、あの時こうしていれば。
しかしこのような自由意志による選択にともなう自責感情はそもそもの前提がおかしいのだと思う。
なぜならあの時の選択はどれほど自分の意志で選び取ったという実感がともなっていようとも、反対に伴っていなくともすべては自分の意志の介在しない次元で決まってしまっているのだから。
本当はそう単純なものではないけれどざっくりとこれがスピノザの立場といってもいいのではないか。

ではすべてにおいてなされるがまま、流されるままにランダム性の中で生きることはできるのだろうか。そんなことはできない。どんな人もその人なりの意志を自分の実存に対して介在させているとしか考えられない。まったくの自分の意志がない人間を想定できない。そのような存在は人間とはいえない。
本当にそうか。
そのような意志はまさに我々が考えているような意味での「自由意志」というものでありうるのだろうか。
例えばここ数年でAIが一気に性能を上げた。
AIに大量にデータを食わせるといかにも人格が宿ったような自然な会話ができるということがわかってきた。
それに伴い我々人間の知能や思考も実はそのようなものでしかないということがわかってきた。
端的に言うと、どうやら我々人間もその行動や選択に関して「膨大なデータから帰結する予測可能性」に従っているだけなのではないか、ということに気づき始めた。
このことはAIという技術から我々人類が学ぶべき最も重要な教訓でありメッセージであると私は思う。
そこから考えられることは、人間が自由意志だと錯覚していること、それはじつは自分の中に蓄積された膨大なデータからの予測可能性に基づいてまさにAIと同じ処理をしているだけであるということに帰結する。
「一億総生成AI」時代の到来と言ってもいいし、そのような認知を自分自身の意思決定についてきちんと持っておくべきだと思う。

つまりここまでの話をまとめると、人間に自由意志なんてやっぱりなかったし、「膨大なデータから帰結する予測可能性」に従っていただけのことを人間は「自由意志」と名づけ、勝手に何か人間にしかできない特権的な能力であるように自惚れていただけだったということになる。スピノザが言っていたのもまさにそのことでしかない。

とはいえすべて極論であるが。

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