福尾匠さんの480分で『千のプラトー』講義3回目を視聴した感想

神回だった。端的に神回と言っていい。
リアタイで視聴を始めるが日中の仕事で疲れ果て意識は混濁しており全く集中できなかったので一夜明けてアーカイブで視聴した。
観終わって今、二時間にぎっしりと詰め込まれた言葉の洪水を浴びたような感覚にある。一度聴いただけではかなり取りこぼしているような気がする。
今の私自身の生活状況とか精神状態とかを鑑みて、喚起される感情がたくさんあった。

私たちが当たり前として受け入れている規範や常識を疑ってみるということ。それが普通だと思っていることの規範性をさらに解体すること。何かと何かの関係性や二項対立で考えてしまっている構造を取り除くこと。
もしそのようなことができるのであれば、まさに私の直面する袋小路のような閉塞感、逃げ場のない追い詰められているように考えていることにも逃走線を引くことができるかもしれない。
私が私自身を〈私〉であると意識しているそのこと自体が幻想に過ぎない。そのような固定点を勝手に作り出しているに過ぎない。あるのはただ〈冗長性〉のみ。それは自分自身をむやみに特権化しないということ。
ハッと思わされたのは、「私が生き残っていることそのことに対する恥の感情」のくだり。
ぼんやりと感じていた感覚のど真ん中を射抜かれた感じ。私は私自身を恥じているんだ。私自身の恥の感情を他の誰かに投影してイライラクヨクヨしているだけなんだ。
「そもそも〈私〉なんてないんだ」という言葉が思い浮かんだ。私が考えている〈私〉自身なんて全部ウソでしかない。
このようにテキスト化してみると、この言葉自体がウソに見えるが、それがまさにドゥルーズが言っている「言葉なんて本来そういうものでしかない」ということなのではないか。
私という存在自体が全体の関係性のネットワークの中に溶け出してしまい、私と他とを区切る境界線が曖昧になくなっていく。〈私〉とは本来そういうものであってあなたの常識が「誰かにそう思わされていただけ」なんだよとドゥルーズに言われているような気がする。

今ここに書いたことはかなり自分の解釈が入っているし、福尾さんが講義で言っていたことを受けて私の立場で考えたことでしかない。
福尾さんが意図していたことはまったく別のところにあったと思うし、気になる方は実際に講義を受けてみて自分がどう触発されるか感じて欲しい。さまざまに解釈可能であり、個々の立場に応用可能でもあると感じた。
コメダ着いた。第10プラトーを読もう。

以下はコメダでさらに追加で考えていたことを書いてみた。
福尾さんの講義の感想から離れて自分なりに疑問が噴出した。ただ出てきた思考の種を書き散らしておく。

店員が窓際の席で「ここの席アレなんですよ、カーテンを下げても隙間から西陽が入ってきて、ちょっとアレなんですよ」と言っている。「ちょっと残念な席なんですよね〜」ということが「アレ」の中に含まれる冗長性であるが、意味性との違いは何か?
意味性とは「だから察して〇〇しろよ」という要求を含んでいる。冗長性はただ言語のそのような特性を表現しているだけでそもそも言語とはそのような冗長的なものであってその冗長性を利用したコミュニケーションに溢れているよ、ということにすぎない。そこからもう一段先に行きたい。
なるほど確かに言語は冗長性である。
〈私〉が私にとって私であって、あなたにとって私が〈あなた〉であるように、そのような反転性が元々言語に組み込まれた社会性(規範)であるとしてそのような〈一〉の中に含まれる〈多〉性への反転が言語的な決まりであるということに対して素直に納得できる部分とそうでない部分がある。なぜなら確かにそのような反転性をそれ自体の差異としてではなく規範として認めることで、ある種のドゥルーズ的自由を獲得することはできるかもしれない。しかし反面、言語以前の問題としてあるヘーゲル的〈一〉と〈多〉の矛盾を想定することができるのではないか。というかそのような言語以前の体系を想定することは本当にできないのか。それは「超越」であるとしてドゥルーズが批判したことなのかもしれないが。
言語的規範としての反転性と言語以前にある〈一〉と〈多〉の否定性の次元がどのような関係性になっているのか。それともすべては言語という前提の上で成り立っているに過ぎないのか。もし言語という規範がなければただぐちゃぐちゃした差異があるだけか。
ほんとうにそうか?ポスト構造主義以前の哲学はただの言語という枠組みの上で行われているゲームにすぎないと、キッパリと線を引くことに妥当性があるのか。それならポスト構造主義の哲学者たちは言語を使って行われる哲学がすべて言葉遊びであるということを自ら認めてしまっていることにならないか。構造主義以前と以後を分ける分割線を引いて考えたときにこのような問題が生じるのではないか。
現実の影としてある構造。1960年台のドゥルーズ自身が認めた構造と後にあるその構造の否定。両者の対立関係。常に潜在的に作用する矛盾とヘーゲル的否定性。
これらの疑問を自分なりに育てていければいいと思う。

「実際に矛盾があるということは承知している。だが、こうした現実の矛盾は笑いとばすしかないということもわかっているのだ。」(千のプラトー 中p172)

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