
2026年9月17日
昼飯をスーパーに買いに行こうとエレベーターホールに行くとたまたま同僚がいてノリでお昼をご一緒した。職場の人とお昼を外で一緒に食べるのは数年ぶりだった。ドラマの脚本書いて賞に応募したりしている人で今の職場で唯一私と話が合うと感じている人だ。普段なら絶対「お昼ご一緒しませんか」なんて言わないのに、自然と私の方から誘ったのだから驚いた。
老いた夫婦がやっている駅前そば風の店に入る。わかめうどん340円。安いが過ぎる。うどんもダシが効いていて旨かったし楽しく話して連絡先まで交換した。たまにこんな感じでお昼ご一緒できたら少しは仕事に行くのも楽しくなるかもなと思った。職場に全然仕事をしない人がいてその人のこととかやんわり話を振ってみると、「正直私は全然気にしてない。勝手にすればいいし私には関係ない。その人に拘って自分まで同じレベルに落ちたくない。自分のやるべきことをやるだけ」と言っていた。少し心が軽くなった。2026年9月12日
先日妻とケンカしてからまともな会話をほぼしていない。話しかけても返事が返ってこない。昨日は職場でもどうやらいらんことを言ってしまったようでさらに若手に嫌われてしまったみたいだ。家庭でも職場でもますます僕は孤立化していき陸の孤島のような存在になり誰からも相手にされなくなり、最後には存在していることすら誰にも知られず一人寂しく死んでいく。自分自身が透明になっていく。その色が存在が次第に薄くなり最後には全く見えなくなってしまう。そのような未来がありありと見える。というか今まさにそのような状態に近づきつつある。それもまたよし。それも又吉。(一人称を僕にかえてみた。福尾さんの真似っこ。)
ここ最近シットとシッポの一番古いエピソードから聴きなおしていた。なんだか二人ともぎこちなく敬語など使っていて、たまにタメ口になったと思ったら、また急に敬語になる。まだ知り合って間もない頃のこの感じわかるわぁ、と思いながら聴いていた。そこから急に最新エピソードに飛んで聴いてみた。福尾さんはあまり変わらない。荘子itは単純に初期の頃にあった福尾さんへの敬意があまり感じられなくなっていた。かなり相槌がだるそうで感じ悪い。福尾さんはどう思っているのだろうか。ふとシットとシッポもう直ぐ終わるかもしれないと思った。まあ僕の予想はだいたいはずれるので。
昨日の「ドゥルーズ」ゼミ第二回の動画がアップされたので待ってましたとばかりに視聴した。承認欲求アラートからできるだけ距離を取ったつもりで2回も質問したのだ。客観的に聴いてみたらどんな感じに聴こえるのだろうと楽しみにしていた。自分のしゃべりをこう言った形で聴くのははじめてだった。意外と冷静にしゃべっていた。
でも反面うがった見方をしてしまう。わかっている風なことを無駄に卑下しながらしゃべっていて嫌になった?それとも少し自分を見直した?どっちにも平等に肩入れしたくなる。
うそ。やっぱり人って成功体験が大事だよね。2026年9月11日
自分の書く文章がどうしても気持ち悪いような気がして、なんとかならないもんかと加藤典洋『言語表現法講義』を再読していた。読んでいるうちに自分の文章は別に今のままでいいんだという気持ちになってきた。
私の文章には極端に接続詞が少ない。それを直したいと思っていた。「第四回 文と文の間」を読んでいる時、思い切って飛ぶんだという話を読んだ。その人によって接続詞を多用する人もいれば、そうでない人もいる。それが文章のスタイルになるのだから無理に直す必要もない。このまま私の書きたいように突っ走ればいいのだと吹っ切れた。別に文章で飯を食っているわけでもないし、誰が見ているわけでもなぁい。上手い文章、かっこいい文章が書けるようになりたいという思いはあるがそれも究極自己満足なんだから。そもそも上手い下手、ダサいかっこいいなんてのはそれぞれの主観による偏見の産物でしかないのだから。夜、ドゥルーズ『差異と反復』ゼミ1回目終わった。もう無理やりリアルタイム参加してやった。2回質問した。普通に言いたいことが言えたということをまず大きな収穫と思いたい。参加して思ったのはこのゼミはリアルタイムで参加して質問しないとやっぱり意味がないということ。少しずつでも毎回質問をしていこうと思う。また予習でやっていた精読の方向性は間違っていなかったということ。自分なりに精読した答え合わせとしての講義参加を何とか続けていきたい。
2026年9月10日
シャワー浴びながら何の気なしにドゥルーズについて考えていた。ここにきてようやくドゥルーズを本格的に読み始めたわけだが、これまで読んできた哲学者を考えたときすべてはドゥルーズに繋がっていたんだと思った。哲学をはじめて最初の頃はカントを読んでいた。その後でスピノザとかニーチェとかヘーゲルを読み始めた。記憶では確かそのあたりで一度ドゥルーズに挑戦したんだ。しかし全く歯が立たずこれはもう少し前提となる哲学者を読んでからのほうが良さそうと思って、ラカンとかヒュームとかベルクソン、フッサールあたりを少し読んだりしたんだった。
そんなこんなでいつのまにかスピノザとヘーゲルに集中してとりくむことが多くなっていて、ラテン語やドイツ語も始めて曲がりなりにも哲学書の原典を読むということが少しずつできるようになってきたところだった。
このような経緯で今回ドゥルーズに戻ってきたんだけど、振り返ってみてもこれまで読んできた哲学者の先に予定調和のようにドゥルーズが待ち構えていたと言ってもいいし、ドゥルーズを読むためのルートとしてはいたって標準的な哲学者の選定といってもいい。信じられないことに少なくともここまで5、6年はかかっている。それでやっと今ドゥルーズへの挑戦権を得ているという実感はある。この挑戦権を得ているということだけでもすごいことだと思う。自分を誇れ。2026年9月9日
妻と朝ケンカしてしまい、ドゥルーズ『差異と反復』ゼミにリアルタイムで参加できなくなった。それでも予習だけはしておこうと思い「何を構造主義として認めるか」を精読した。第一の規準まで読みこんで質問を考えた。そのなかでラカンの理論が参照されていたので「新疾風怒涛精神分析用語辞典」の読み直しを行った。この本を読むのは3回目くらいになるので議論の流れはすでに自分の中に入っている。「そうだったそうだった!」という感じで読み進める。何回読んでもおもしろいしすごい本だと思う。私のラカン理解はほとんどこの本の内容に依るところが大きい。4分の1くらい読めたので満足した。明日と明後日の朝の時間でどこまで読み進めることができるかな。できたら金曜日までにできるだけ読み進めたい。今日は外は一日中嵐のような天気だったし大学図書館には行かなかった。それでもやるべきことはやったと思う。朝のケンカは余分やけど。最近ケンカが多いのは私自身の体調が回復してきたということも要因なのかもしれない。以前は体調が悪すぎてケンカなんてしている余裕もエネルギーもなかった。元気があるからこそちょっとしたことで大きなケンカになってしまうということもあるだろうか。
最終的にお金を完全に分けることになった。ケンカをするごとに毎回何かを少しずつ二人それぞれのもとに分割していっているような気がする。ほんとうに離れるための段階が少しずつ前に進んでいっているのかもしれない。
どこまでこの関係が続くかほんとうにわからなくなってきている。もう私もほんとうに別れてしまっても仕方がない瀬戸際まできているのは自覚しているしそうなっても私自身の責任として受け入れる気持ちの整理もつき始めている。その方がお互いのためになるとも思う。そんなことを言っても実際別れたら私は喪失感に苦しむのかもしれない。でもまったく逆に何とも思わないかもしれない。それは自分の中で五分五分という感じがしていて予想がつかない。なにか楽しみなこととしてぼんやりと想像されるにすぎない。
それにしても遅すぎた。ここまで一緒になんとか頑張ってきたという思いだけが最後、背中を引っ張っているようだ。ここまで頑張ってきて結局別れるのか。もはや夫婦としてはお互いに気持ちが終わっているのは重々自覚している。それでも続けていくことに何か意味はあるのか。答えは出ない。ネガティヴケイパビリティ?エポケー?そういってお茶を濁していられる時期はもうとうの昔に過ぎていたのに。2026年9月8日
『差異と反復』ゼミに自分が参加する上での自分なりの心構えみたいなものが思い浮かんだ。それは「私がラテン語やドイツ語でスピノザやヘーゲルを原典読解する時のように、ゼミ内で扱うテキストを精読するということ。精読するとはつまりゆっくり繰り返し読むということだと思う。テキストを読み込めばおのずと聞いてみたいことは出てくるような気がする。
2026年9月7日
ドゥルーズ『差異と反復』ゼミ受講のためにソトのガクエンの月額プランに申し込みをした。過去のゼミのアーカイブ動画を少し観ただけでもかなり勉強になりそうなものが多く、ひとり孤独に勉強してきた身からするとなんともキラキラと輝いて見えた。こんなコミュニティに入って自分も勉強したいという想いはもちろんあるのだが、一方で自分にはおそらくそんなことは荷が重いだろうという気持ちもある。もっと気楽に始められればいいのだが私にはそれができないのだからしかたない。いや元々ただドゥルーズが読めるようになりたいという一心で興味を持ったのだ。あくまでもその気持ちにフォーカスし続けることが一番大切だと思う。とにかく私はドゥルーズが読めるようになりたいのだ。その気持ちだけは絶対に本当だ。この自分の脳みそフル回転させてなんとかしてでも何かを自分のものにしたい。
たとえば次回の『差異と反復』ゼミで何か質問をしたいと考えていて、どうしてもスピノザやヘーゲルに絡めた質問を考えようとしている自分がいる。その心はスピノザやヘーゲルを研究している自分を知って欲しい、という承認欲求的な自我が透けて見える。SNSをやめても承認欲求はいろんなところから入り込んでくる。承認欲求はほんの少しの隙間から私の意識に入ってきて、ふと気づくとそれに心が支配されてしまう。つまり自分を知って欲しいとかよく思われたいという自意識は捨てたいがそれが一番難しいということである。誰かと集まって、その誰かと関係性をはじめることにはもちろん複数で取り組むことでしか得られないメリットもあるが、そこには私自身の承認欲求がどうしてもが入り込んでしまう。誰かとの関係性の中に身を置くということによって本来の目的を離れその人間関係そのものに拘泥してしまうリスクを考えてしまう。そんなことを考えていたら誰とも関係性をはじめることはできないし、私は自分が得るもの、失うものという観点で物事を考えすぎている。
つまり何事に対しても打算性や損得勘定でしか行動できない私という人間がどうしようもなく嫌いではあるけれども、それをどうしても払拭することができないので、それならいっそ人間関係そのものをできるだけ排除して、自分ひとりでやったほうがいいのではないかという気持ちとそれでも誰かと関わってみたい、一緒になにかに真剣に取り組みたいという気持ちが入り混じっているように思う。
でも結局は「打算性や損得勘定でしか行動できない私自身」の問題であってそれに他者を巻き込んきたこれまでの経験から臆病になっているという感じなんだろうと思う。
このような自己分析をしてみたところで私自身を根本から変えることはできないのがもどかしい。2026年9月5日
朝起きぬけにベランダで本を読んでいた。空気が爽やかで自然と深呼吸したくなるような気持ちのいい季節になってきた。ふと子供の頃夏休みなどに帰省した父方の福知山の田舎の暮らしを思い出す。昼は裏山の竹を割ったそうめん流し、夜は庭でバーベキューを父母や親戚たちとしていた。あの新鮮な空気の香り、水の流れる音。自然と一体化したような平屋の畳の匂い。今となってはもう二度と戻れない。ほんとうの天国とはあのようなものなのかもしれないなと思う。当時はそれがあたりまえで何も考えずその天国を享受していたしそれがいつまでも続くと思っていた。しかしそうではなかった。もう二度と戻ることはできない。けれど私の原体験として深く刻まれているそこでの暮らしを思い出し泣きそうになる。
でもいつまでもそのような桃源郷にはいられない。いつかは皆それぞれの運命にしたがい方々に散っていく。そのようにして私も気づいたら40歳になっていた。人生は短い。つぎにハッと気づいたらもう60歳とかになっているのだろうか。いつかまたあの場所に帰ることができたらいいなと思う。妻と私は結婚するのが早すぎたのかもしれない。私の方の精神的な準備がまるでできていなかった。どのような成り立ちなのか今やっと少しずつ理解することができ始めたような気がする。それは私が今読書をしたり、アニメを見たり、ポッドキャストを聴いたり映画を観たり、美術鑑賞をしたり、さまざまなことに触発されてやっと理解が追いついてきたようにも思える。あの頃の私は友達がいなかった。今もいないが今は妻がいる。妻がいなかったらアニメも見ていないだろうし、映画も見ていないし、美術鑑賞もしなかっただろう。ものすごく限られた偏狭な世界の中でしか私は生きていなかっただろう。そのような様々に触れてやっと少しずつではあるが自分というものの位置をこの広い世界の中に固定することができ始めたのかもしれない。もちろん固定とは比喩である。万物は常に動きの過程にあるのだから。
SNS的でない様々なものから触発されること、そのことの切実さを思う。その中に自分を突き落としてくれたのは妻だと思っている。そして16年経ってやっと少しずつ世の中が見えるところまできた。私はずっと後悔していると思ってきた。おそらくその後悔しているという自認自体が私の浅はかさの表出であり、それは私にとって手に余る物事だったのだろう。それでもここまで続いてきた。そのことを誇るべきだとも思う。シットとシッポを聴いていたら福尾さんがベケットの『モロイ』の話をしていたので少し読んでみた。以前にも少し読んでみようとはしたがすぐに挫折した。今回はもう少し喰らいついてみようかと手に取ったがすぐに挫折した。また近々挑戦したい。
大学図書館から帰宅して妻と土間の窓ガラスにスモークフィルムを貼る作業を行った。思ったよりうまくいって安心した。夜「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」を観た。ここ数日の癒しコンテンツ。
第5話まで観た。主人公のおじさんリーマン佐々木さんは職場でもいい人すぎて、いろんな人から仕事振られまくっても断らず、15連勤で午前様でそれでも頑張ってて、唯一の癒しがスーパーの裏で店員の山田さん(田山さん)とヤニ休憩をすることなんだけど、佐々木さんが鈍感でチョロくてそれがなんか憎めなくて、佐々木さんにとっては救いの女神のような山田さんなんやけど、実は山田さんにとっても佐々木さんの存在が大きくなってきていて、両想いになりかけている。そんな感じ最高だわ。2026年9月4日
小泉義之「ドゥルーズの哲学」解説を残して読み終わった。
これからドゥルーズを読んでいきたい!読んでいかなくては!と思わせてくれる力のこもった一冊だった。自分の生をいかに肯定するのか。まさに今私の問題意識とピッタリ合致していて、ドゥルーズがざっくりどのような方向性を指し示しているのかわかったし、それはなんとなく知ってはいたがスピノザ的なものであり、反ヘーゲル的なものなんだ。微分的なもの、潜在的なもの、解けない問いを解くように生きて死んでいくこと。そのようなものとして自分の生をただ肯定すること。私にとってはポジティブなメッセージに溢れていて、これまでスピノザを読んできて考えてきたことが補完されるような気がした。撮り溜めていたアニメ「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」を見始めた。正直な感想としてかなり癒される。ジャンルとしては「日常系恋愛もの」なんやけど、ただいつまでもスーパーの裏で二人仲良くヤニを吸っていて欲しいなと思える作品。こんな奇跡みたいな関係性がどこかにあればいいのにな。SFとして観てる分には夢があっていいよ。
はやくドゥルーズのゼミの日が来ないかな。楽しみだな。2026年9月3日
小泉義之「ドゥルーズの哲学」をかなり読み進めることができてもうちょっとで読み終わりそう。自分でも驚くペースと言ってもいい。SNSを見るのを完全にやめてから明らかにインプットもアウトプットも1日でこなせる量が増えた。単純にSNSを見ている時間の分だけでなく、それよりも脳の認知リソースの浪費が減ったことが大きいのだと思う。
今この世の中でSNS的なものから断絶して生きるというのは無名であることの特権の一つなのではないかと思う。職場でも家庭でもリアルでもバーチャルでも常に誰かとのつながりを強要される過剰接続時代にせめてもの抵抗を試みたい。自分の趣味の時間くらいは誰とも接続せずに、ひとりもくもくと自分の構想を前に進めることに集中する。誰に気を使うこともなく、自分のペースで自分自身と向きあう。今日はそのように過ごすことができたのでよい1日だった。
