写真と言葉で日々を記録する。

  • 2026年9月2日


    シットとシッポ「東浩紀降臨!」回を聴いていた。
    「ごちゃごちゃ言ってないで面白いものつくれよ!」というメッセージが印象に残った。
    私も私なりには何かを日々作っているつもりだが、圧倒的に面白くないものを量産しているという感じか。
    そもそも私は面白いものを作りたいのか?面白くなくても自分が納得できるものを作りたいのか?面白くなくても誰も他に作っていないものを作りたいのか?それともやはり多くの人に面白がってもらえるものを作りたいのか?
    世の中を見渡すとアテンションは多く得てるけどほんとうには面白くないものはたくさんある。そしてほんとうに面白いものが必ずしも多くのアテンションを獲得できるというわけではない。
    「アテンションの多さ」とほんとうの「面白さ」みたいなものはきちんと切り分けて考える必要があると思う。そしてもし私ができるとしたら、即興的な面白さではないだろう。ロン・ミュエクのように一つ一つの作業は地味で単調でなんでもないが膨大な時間をかけてそのなんでもない作業を愚直に積み重ねていくことで出てくるおもしろさ、凄みみたいなことにあこがれがあるし、その方向性しかないとも思う。

  • 自分の発信するものにどこまでAIを関わらせるのを是とするのか


    哲学ブログの方でAIを使って記事を書いた。少し前にAIを使って文章を書くのはやめようと言ったばかりではなかったか。自分でも言っていることがぶれぶれだと思う。それなのになぜAIを使って書いたのか。
    一応自分なりの理屈はある。それすなわち今回投稿したような内容の記事はまだ他の人は書いていないと思ったし、私という存在がAIを使ってできることをやってオリジナリティが出せるならば、そこには一定の価値があるのかもしれないと思ったから。
    昼にバッドファーマシーを聴いていて上出さんが「他の人がやらないことで私という存在ができることをやっている」というような趣旨のことを言っていて、私が解釈を間違えている可能性はあるけど、勝手に勇気づけられた。
    今回の記事作成に関しては、最初の質問を思いついてAIに投げたのは私だし、その質問に対して普段から哲学の壁打ちをしまくっているアカウントで出力した内容を元に記事化をしたということ。私としてはそのAIの回答に私自身のオリジナリティを見出せるのではないかと思ったというわけだ。つまりAIさえあれば誰でも同じような記事が作れるというわけではないと考えたのだがどうなのだろう。
    ただ単なる自分への言い訳のような気もするし、前回の記事と何も変わっていないにもかかわわず屁理屈を捏ねているだけかもしれない。
    何でもかんでもAIに頼めばいいのというわけにはいかない。私の中でAIを使っていい時とダメな時、その境界線をどこに設定するのか。自分の発信するものにどこまでAIを関わらせるのを是とするのか。以前も書いたがやはりAIの出してくる文章はいかにもAI然としていて少し気持ちが悪い。それでも自分の問題意識や興味を即座に記事化できるという面でのメリットは大きいと思う。今回のように、「これはAIで作成した記事である」と明示した上で発信するのであれば私としては許容範囲内であると考えてもいいかもしれない。それもあくまでも現時点で考えていることはこんな感じかな。これからも自分の中でいろいろ試してみて許容できるラインを探っていくしかなさそうだ。
    他の人たちはどんな感じでAIとの関わり方に折り合いをつけているのだろうか。興味はある。
    一応その記事へのリンクを貼っておこう。

    『攻殻機動隊』の電脳化はどこまで現実なのか――BCIからスピノザの心身論、人形使いまでhttps://ogkphilosophy.com/ghost-in-the-shell-denno-ka-spinoza/

  • 2026年8月31日


    小泉義之「ドゥルーズの哲学」を読んでいた。微分の説明がここまでわかりやすく書かれている本に初めて出会った。もちろん微分の解説だけであれば数学の本を探せばもっとわかりやすい本はたくさんあるだろう。でもそれがドゥルーズの哲学における微分となると一気に選択肢がなくなる。おもしろくて一気に3分の1くらい読んだ。こんな感じで少しずつでも自分の中にドゥルーズ哲学の感覚をインストールしていくしてくしかないだろう。それでも自分が未知の新しいものに開かれていくような気がしてうれしい。

    朝ゴミを捨てに出たらマンションの廊下にカナブンの死骸が落ちていた。一階降りるごとに一匹落ちていた。形がそのまま残っているもの、誰かに踏まれたのか足はもげぺしゃんこになっているもの様々だった。

    いちじくを食べた。皮を剥くとき頂上からするりと手で剥けた。美味いいちじくであることが食べる前からわかる。ただ熟していたらいいというわけでもない。毎日りんごを剥いて食べているので、果物の皮を剥くときの指先に伝わる感覚で大体判断がつくようになった。美味い不味いというのはただの差異にすぎない。美味いから善、不味いから悪であるというのは人間が勝手に解釈しているにすぎない。

    過去の記事を読み返していたらこのMacBookの購入記事が出てきた。2021年9月に購入しているので丸5年使っていることになる。最近は外出時にも持ち出すようになり、これがなくては生活が成り立たない。ちょっと扱いが荒いかもしれない。壊れたら路頭に迷うことになるので、もっと大切に扱わなくてはいけないなと思う。
    それと同時にこのマンションに越してきて5年が経ったんだとも思う。このMacBookはマンション購入時のグリーンポイントとやらで購入したのだった。
    5年という月日を思いかえす。「何も変わっていない」と「すべてが変わってしまった」の両方を同時に感じる。時が経つのは「早い」とも「遅い」とも「順当」とも私には思われる。不思議だと思う。

    寝転がって本を読んでいたらうたた寝をしていた。これでいいじゃないかと思う。眠たければ寝ればいい。なにも自分を責めることはない。もはやSNS的なものに急かされることもない。なにをやってもやらなくても大丈夫だと思えた。

  • 2026年8月30日


    世界(SNS)との接続を切って1週間。まだことあるごとにXを開きたくなる。そして自分が世界から取り残されていくような感覚も少しだけある。本来の世界の「暇さ」とか「退屈さ」を今はしっかり思い出したい。これまでは退屈さを感じる暇もなく新しいコンテンツの渦に巻き込まれていたのだ。ネットには際限がない。それはまさに悪無限としかいいようがない。
    情報に際限はなくともそこから自分が得るものはいつも決まっている。「承認欲求ベースの生活習慣」これである。これこそ諸悪の根源であると思う。そしてこれは現代の資本主義が生み出したまやかしのゲームでもある。そのゲームの盤上で現代人は皆踊っている。いや、踊らされていると言った方がいい。その裏にはそれで金儲けをしている大企業の周到な論理がある。なにか話が陰謀論めいてきたがそのようなゲームから降りるということ、これこそがずらしであり、カウンターであり、天邪鬼な私の生存戦略であるということが言いたい。

    「シットとシッポ」最新話を聞いていたら、福尾さんのフィロショピーで「480分で『千のプラトー』」という講座をするという。これも「差異と反復」ゼミ同様に「千のプラトー」に自分でアタックできるようにするまで持っていけたらいいという感じみたいで俄然受けたくなった。迷っていると言いながら自分の中ではもう受講することを決めている。そんで千のプラトーの愛蔵版を立ち読みしたくなったので、梅田のジュンク堂へ午後から行ってきた。ううーん。あいからわずのわからなさで逆に安心する。480分でこれにアタックできるようになるとは到底思えない。実際それは厳しいのではないかなと思っているし、この講座に期待をかけすぎるわけではない。だって内心では実際4800分あってもおそらく無理なんじゃないかなと思っているから。それでもなにかとっかかりは掴めるかもしれないし、めちゃくちゃたのしみではある。『ドゥルーズキーワード89』と小泉義之著『ドゥルーズの哲学』を買って帰宅した。

    ということで9月中盤からはドゥルーズにどっぷりと浸かることになりそう。ドイツ語とラテン語も続けることが大事だと思う。

  • 2026年8月29日


    朝、福尾匠さんの日記ブログを真似てこのサイトにも「ランダムに記事に飛ぶ」ボタンを設置してみた。フロントページの最下部に設置したので押してみてほしい。
    AIが使えるようになってワードプレスのデザインを比較的イメージ通りに変えることができるようになった。以前であればこのような些細な変更も自分ではできなかったので大きな変化だ。少しずつ変えていこう。そしてこの少しずつというのがキモで一気にやってしまうと脳がバグり、また目が赤く充血しそうで怖い。なんでもそうだがのめり込みすぎないことを意識しなくてはならない。私はすぐに一つのことを思い詰めてしまうので。

    ギリ雨が降っていないのでチャリで大学図書館へ向かう。早朝の図書館内は閑散としている。広大な本の森の中で一人、この文章をMacBookに打ち込んでいる。周りには誰もいない。
    やっと大学図書館の夏休みが終わってくれたので市営図書館に行かなくて済むのが地味に嬉しい。今日はドイツ語から始めようか。ラテン語とかドイツ語の精読をしているといつもこのしんどい行為に何か意味はあるのかという気持ちになる。言い方を変えるとこれをすることできちんと私は前に進めているのかという疑いの気持ちになるという感じか。

    翻訳作業の合間に「ランダムに記事に飛ぶ」ボタンで過去の自分の記事を読んでいた。普通に良かった。おそらく他人が読んでもいいとは思わないであろう私自身が書いた記事をランダムに読み返すことの良さを感じた。写真もすごくいい。2024年の末から2026年の夏、つまり今回このウェブサイトを再開するまでの空白期間が悔やまれる。きちんと写真や文章を残しておけば良かった。いや写真素材は残っているはずなので手間さえかければ今からでも記事にすることはできる。それをやっていくべきと思う。

    昼めし食べながらポッドキャスト「勉強人」の村上春樹『夏帆』回聞いていた。登場人物の夏帆が勝手に動くにまかせて、春樹はそれをただ写しとっているような構成になっているという話が良かった。もちろん自分が作り出したキャラが勝手に動き出すわけはない。すべて春樹の頭の中からでてきたストーリーではあるのだが、春樹の意識としてそのような感覚があるのではないかという話。

    ドゥルーズ『差異と反復』ゼミで2本ベルクソン論を読むとのことなのでベルクソンの表面的な知識程度は仕入れておいた方が良いだろうと思い、少し『ベルクソン思想の現在』を読んだ。

    夜、ふとした瞬間てもちぶさたでSNSを見たくなるが見ずに読書をした。随分と良い時間だった。自分の中でなくしていきたいものは「誰かに対する期待」だと思う。ブログやポッドキャストで自分が発信することはいい。ただそのUIの中にできるだけ誰かからのコメントや反応が返ってこないようにしておきたい。無駄に誰かに期待したくないから。私が発信したいことがあるから発信しているだけでそれに対する反応は求めていない。それならそもそも反応できるUIにしなければいい。それができるのがワードプレスでサイトを作っているメリットでもある。私が書きたいから文章を書く。私が喋りたいからポッドキャストを収録する。それでいいしそれだけでいい。読みたければ読めばいいし、聴きたければ聴けばいい。

  • 2026年8月28日


    NHKのニュース原稿をAIが澱みなく読み上げている。外国人が東京の高級時計店に強盗に入っていた。映し出される映像はどこか知らない外国の光景のようにも見えるが間違いなくこれが今の日本なんだ。いつから世界は私の知らないものになったのか。そして私は今日もデカいバックパックにMacBookと語学書を山ほど詰めて大学図書館へ通う。詰めすぎてバックパックの縫い目がギチギチ引っ張られて破れそうになっている。
    どこでマンデラエフェクトは起こったのか。世界だけが加速度的に進んでいき、私はある時代に取り残されたままだ。それでも身体だけはしっかりと老いていっているようで最近老化を感じている。大学はまだまだ夏休み中のようで図書館内は閑散としていた。クーラーが効きすぎない最上階の閲覧席にバックパックをおろす。いつものようにスピノザ『エチカ』の翻訳作業をはじめる。いつまで経っても憶えられない単語を辞書で引き、ノートに書き写していく。それぞれの単語の意味がわかっても文意が取れるわけではない。ラテン語は単語の連なりから文章へ変換する際の飛躍が大きい。前後の文脈把握能力と想像力、応用力を試される。ニュアンスみたいなものが重視される。その点ドイツ語は厳密なので意味が一つに確定しやすい。全然違う。ひとしきスピノザのラテン語と格闘し帰途についた。
    ひさしぶりに母に電話をした。声は明るかった。でもその声の中にあるもう決定的に断たれてしまった親密な絆の断線がたしかに感じられて悲しくなる。父母と話すたびに私はもう家族ではなくなってしまったんだという想いがしてやるせなくなる。それも私自身がそうしてしまったんだからどうしようもなく取り返しもつかない。両親がどれだけの想いで私を育ててくれたのかその愛情を考えると、その愛の中にあるいびつさやエゴも同時に喚起される。二つに分たれた想いの間で押しつぶされそうになる。
    私の精神はあの大学時代の終盤に取り残されたままなのかもしれない。

  • 2026年8月27日


    一人になるということ、完全に孤独に生きるということをリアルに想像した時たとえば、何か楽しいことや悲しいことなど感情の変化を誰とも共有できないということをほんとうにリアルに想像した時怖くなった。私には妻がいてこれまであたりまえのように感情を共有して生きてきたことは全然あたりまえではなく、すでにわたしにとっては妻と共に生きるということが私であって、もし急にある日妻がいなくなってしまったらなにか自分の半分がなくなってしまったような感情に襲われるだろう。今、急に啓示のようにそのような考えが閃いた。そして今そのことに気づくことができてほんとうに良かったと思う。
    人の感情や思考は本来矛盾したものだ。このまえまで離れたいと思っていたものが今はまったく違う正反対のことを考えている。潜在意識には物事のあらゆる考えが潜んでいて、受動的にその度ごとにある特定の考えが表出しているにすぎないように思われる。それでも同時に相反する考えに支配されることはないだろう。
    どうしたらよいか。それはそのときの感情を覚えておいてその感情を思い出すようにするというような主体的にできるものではないだろう。ある種の必然性によって引き起こされた感情がフラッシュバックされる、というような表現のほうが私の体感に近い。結婚して16年経って今そのような思いが私の中にあるということ自体に必然性を感じざるを得ない。このような心境になるということは必然だった、これ以外にはなりようがなかったということをなんとなく肌で感じる。

  • 職場でやらかしてしまった。


    職場でやらかしてしまった。詳細は伏せるとして要は私がしょうもない嘘をついてある人を非難してそれがブーメランで私自身に返ってくる状況を作ってしまった。それに気づいた時さすがに混乱し自分自身のバカさ加減が嫌になった。これまで私が行ってきたことがすべて稚拙で滑稽に思えてしかたなかった。なぜこんなにも私はどうしようもなくバカなんだろうと思う。そして私以外の他人がなぜ自己という途方もなく御しがたい存在と折り合って普通に生活できているのかわからない。
    しかしここ最近私自身に課している生活信条により、それさえも肯定しなくてはならない。とにかくどんな立場や状況に置かれても、その状況を作り出したのがバカな自分自身の行動であったとしてもその生活信条をつらぬなねばならない。常に朗らかであらねばならない。そうしないと自分自身がまたばらばらと崩れていってしまうのは目に見えている。

    昨日仕事から帰って自宅のマンションの廊下を歩いている時、少し以前なら常に呼吸がしづらく、声が出ない状況だったことを思い出していた。当時のことを思えば今は少なくとも精神的な面では状況は改善してきているし、少しずつ毎日の生活が楽になっている。一進一退を繰り返しながらでもここまで回復してきたのだ。つらいながらでもなんとか日々をしのいできた。たまに大失敗はあるとしても、少なくとも今年に入ってから意識してきたことや行なってきたことの大筋の方向性は間違ってはいないはずと自分に言い聞かせている。

    私にとって文章を書くことは難しいことで、少しほんとうの自分自身を書けた気がしても、次の日にはまた元のくだらないものにもどってしまう。それも一進一退なのだろうと思う。大量の納得のいかない文章や大量のつらい苦しい日々の向こうにごく稀に奇跡みたいにいい一日や文章を経験することができるのかもしれない。とにかく続けることだと思う。

  • 2026年8月26日


    昨日からSNSをやめているがすでにすごくいい。時間がたくさんある。可処分時間が圧倒的に増えた感じがしている。自然に自分がやるべき『エチカ』翻訳作業に気持ちが向かった。これ以上情報ばかり集めてもしかたがないから、もうSNSは私にはいらないと思う。承認欲求を刺激するものにはできるだけ近づきたくないというモードに入っている。スピノザが存在論的無菌状態なら私は承認欲求的無菌状態を目指そうと思う。もうやるべきテキストもやるべきことも十二分に手元に揃っている。今私に必要なことはそれに集中することであって雑多な情報に気を散らせることではない。
    ここ最近のなんかうまくいってない感も結局はそこに原因があったんだと思う。やるべきことができていないから自分の人生そのものが停滞している感覚がずっとあった。
    そして私の場合はやるべきことをやるためには徹底的に安易にドーパミンがでる行為から距離を置く必要があったということ。なんかめちゃくちゃにストイックな人間のようだけどそんなことはなくて、私の場合は徹底的にやらないとすぐに流されてしまうからしかたない。

  • なで肩の女の赤い横顔にタバコの雲が夕日で溶ける


    これはいいんじゃないかなと思える短歌が初めてできた。でも情景としてはありきたりだ。それでもかなり気に入った。でもそれだけだ。

    仕事で疲れた夜は嫌いだ。頭が働かず書く文章が稚拙になるような気がするから。それでも書くしかないから書くのだが。みんななんだってそんなにピリピリして生きてるんだよ。もっと自由に適当に生きられないの。せっまい世界で肩肘張り合ってお互いに監視しあってほんと息がしづらい世界になったもんだ。もういいよ。私はもう降りるよ。あとはどうぞご勝手に。嘘のようなしがらみは忘れて私は私の穏やかさの次元で生きさせてもらう。お先でした。さようなら。
    遺言のような日記を書いてしまったぜ。私は200歳まで生きるのだよ。

    なで肩の女の赤い横顔にタバコの雲が夕日で溶ける
    意識して敷居の上を踏んでゆく どうせなんにもできないんだろ
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