
誰かから「いいね」をもらう右上の青いマークを見る目が赤い
すべてのSNSのアカウントからログアウトした。最近またひどく依存していたし、承認欲求に翻弄される自分自身が心底嫌だった。それが直接の原因ではないが妻とも大喧嘩した。なにか自分を変えなければ収まりがつかないほどの喧嘩だった。ほんほうに自分自身も含めて心底嫌になってどうしたらいいかわからなくて悲しかった。何かを変えて前に進むしかなかった。自分にとってなにが大切なのか文章を書きながらひとりスタバで考えつづけた。そしてわかった。私にとってほんとうに大切なことは「穏やかに楽しく暮らすこと」だった。それは不特定多数の承認を得ることでもなければ、何か難しい哲学書をやみくもに理解することでもなかった。明らかに私は資本主義の奔流に流されまくって正気を失いかけていた。気づけてよかった。ほんとうに大切なものやかけがえのないものをすでに私は手に入れていたがそれに気づけていなかった。これまでの私はとにかくこの人生で何か価値のあることをなさねばならないと気張っていた。1分1秒でも時間を無駄にしてはいけないと自分自身を追い込むように生活していた。でもそれが明らかに自分には合っていなかった。そして常に心は何かに追い立てられていたが、その割には自分のやりたいことに手がつかないでいた。
根本的に私の人生に対する態度が違うのではないかと思った。何がそう思わせてくれたのかは特定できない。さまざまな要因が重なったとしか言いようがない。それは今回の妻との大喧嘩かもしれないし、最近観た美術館での展示の影響かもしれないし、学んでいる哲学の影響かもしれない。すべての出来事が複合して、そして私がそれを文章にすることで自分自身を反省することができたのだと思う。このようにして人は変わっていくのだし、そのようにしか自分を根本から変えることはできないのだと思った。
語学書の積み重なった卓上で鈍器のような辞書を読みたい
誰かから「いいね」をもらう右上の青いマークを見る目が赤い
連作八首
複雑にこんがらがったしがらみの中で震える赤目がひとり
ふと「すべて終わりなのかもしれない」と呟いていた朝のはじめに
ほんとうに私のなかのものすべて 邪魔をするなら消えてくれたら
終末は次の終わりのはじまりで引きずったまま生きていくだけ
狂気から生まれてくるもの集めたらそれも一つの作品かもね
傷つけることで傷つく肉体を 傷つけることできず傷つく
「よかった」と思ったことが怖かった 前を向く目が足が重たい
「道具ならよかったのかもしれないね」あなたの声が遠のいてゆく
どうしてもつらい耐え難いことがあったので連作短歌にしてみた。創作の糧と思えばどんなことでも耐えられるのかもしれない。
ドゥルーズ『差異と反復』ゼミ初回の感想
昨夜はソトのガクエン小林さんによるドゥルーズ『差異と反復』ゼミの初回に参加してみた。いろんな疑問が湧いてきてすごくよかった。何か揚げ足をとろうとかそういう意図はないのでそのような前提で読んでもらえるとありがたい。
話の全てが理解できたわけではない。他の参加者の雰囲気を感じとるに、もうすでにドゥルーズをかなり読み込んでいる方が多そうという印象は受けた。まあ20人くらいいたから全体からすると私みたいなドゥルーズ初心者も多いのかもしれないが。
端的にいうとドゥルーズが『差異と反復』のなかで何をやろうとしているのかわかったような全然わからないような両義的な感想を持ったということだ。ドゥルーズが『差異と反復』で行っているのは、ドゥルーズ以前のヘーゲルやカントなどを「表象=再現前化」の哲学として批判し、「表象=再現前化」によらない差異そのものを思考するシステムを作ろうとしたとの話があった。
まず「表象=再現前化」からして私にはわからないのでチャピってみた。「何らかの枠組みにはめ込んで個々の対象を理解すること」ときた。
つまりドゥルーズは「どのような既存の枠組みにもとらわれず、ただ純粋な個別の差異そのものを思考するシステム」を作ろうとしている????
いやいや、そんなことがそもそも可能だと思えない。カントやヘーゲルはもちろんスピノザにしても、その他数多の哲学者の前提のそのものを覆すような話に私には思えた。「それってそもそも哲学なんて必要ないということになるのでは?」とまで思えた。なぜなら「すべての枠組みから解放された思考」というものをイメージしてみたらそれはもはや人間ではなく(本能や感覚のみに従う)動物の領域ではないかと思ってしまったからだ。
そしてそのような「すべての枠組みから解放された思考」のシステムをドゥルーズが作ろうとしているとしたら、それこそ「表象=再現前化」なのではないかとも思った。でももし本当にドゥルーズが『差異と反復』でそのようなことに成功しているのだとしたら俄然興味が湧いてくる。ドゥルーズが『差異と反復』のなかでこの疑問を解いてくれるのならばかなり楽しみだ。なにか私が勘違いしているのだろう。根本的にドゥルーズの話の土壌に私が乗れていないのかもしれない。もちろんそんなことを質問できるほどの勇気は持ち合わせていないのでただ講義を聴いていた。
ざっくりと初回の感想はそんな感じを受けた。一初心者の感想なのですでにドゥルーズを読めている人からしたら的外れな指摘なのだろうなと思う。
次回からもすごく楽しみになった。善悪も上下左右も老若も男女も有無も神さまの影
ヘーゲルの原典読解をやっている。ヘーゲルは「自由」を「自己と共にあること(das Beisichselbstsein)」と定義している。そして「自己と共にあること」とは「自己を規定する原理が自己自身にあること」と言い換えることができる。これってまさにスピノザの自由の概念と同じじゃないかと思った。ヘーゲルがスピノザに影響を受けているのはもちろん知っていたがここまで同じこと言っているとは思ってなかった。
そして注釈者の牧野によるとエンゲルスもヘーゲルにもとづいて自由論を述べた部分で、「自由とは必然性の認識によりその認識を実現すること(『反デューリング論』)」と述べているようだ。私たちが普段ふつうに考えてる自由の意味とはずいぶん違う。自由という概念はなぜ、どのタイミングでその意味を変えてしまったのか。もともと本来の「自由」概念はスピノザやヘーゲルのいう「自己を規定する原理が自己自身にあること」という意味であったのだろうと思う。その起源がスピノザ以前まで遡るのか今の私にはわからない。そのような「自由」の系譜を研究してみるのもおもしろいかもしれない。しかし「自己を規定する原理が自己自身にあること」とは一切の他者と無関係であることではないだろう。そんなことできない。
すべてのものは因果関係で繋がっているし、だからこそ必然的にすべてのものは決まってしまうわけだ。
では「他者の中にあっても自己と共にある」こと。これは具体的にどういうことなのか納得できない自分がいる。そこにスピノザの矛盾がありいつまで経ってもどの研究書を読んでもその矛盾がわかるようでわからない。善悪も上下左右も老若も男女も有無も神さまの影。
三日間虚無を眺めて血を流す白目の気持ち考えてみろ
哲学書を原典で読むということはその哲学者の思考を自分自身の頭に刷り込むことだと思う。なぜならたとえばその哲学書を翻訳本で読むよりも原典を辞書を引きながら一文一文読んでいくことは圧倒的に時間がかかる。別の言い方をすると強制的に精読せざるをえないということになる。辞書を引きながら読んでいくと一つの単語に込められた多重な意味に驚くことになる。その哲学書のどの箇所を切り取って一文抜き出したとしてもその哲学者の思想が滲み出ていることに気づく。それは翻訳文だけ読んでいた時期には気づかなかったことだ。ヘーゲルのある一節にはヘーゲルみが滲み出ているし、スピノザのそれも同様である。どんなに断片的な一節だとしてもその思想の染み出しからは逃れられない。つまり、言い過ぎかもしれないがその哲学書全体で表現したいことは、その本のなかのどの一節でもいいある任意の一節に表現されているとも言える。哲学書を原典で読んでいてそう感じた。その感覚だけはだれにも否定できない私だけの感覚だ。
短歌
その問いが理解できたらまた次の無意識の欲動が暴れる
三日間虚無を眺めて血を流す白目の気持ち考えてみろ
駐輪し一時間半たった今 150円の表示に草
のりこえた今乗り越えたでもそれはべつのXだっただけかも
「筋トレと思って語学続けてる」そう言う君の上腕が鬼
いまさら言うまでもないことだが読むことと書くことは両輪だとあらためて思った。何かをただ書こうとしても何も書くことがない。そういうときは無理やり書こうとするのではなく、読むほうがいい。読んでいたら書きたいことが湧いてくる。法則はシンプルに、書きたくなるまでは読んだほうがいいということ。
スピノザの論理学がどのような位置付けなのか確認しておきたかったということもあり、昨日から『メタ論理学入門』を読み始めた。数年前挫折した時よりもおもしろく感じる。すんなり話に入っていけている。
それはなぜなのか考えてみた。ここ数年、語学をやっていることが私の読解力の基礎になっているのではないかと思った。語学は筋トレみたいなものだと聞いたことがある。そして私にとっては語学に取り組むことがすなわち哲学を学ぶことにもなる(ラテン語ではスピノザを、ドイツ語ではヘーゲルを読んでるふりをしてる)。一石二鳥とはこのことだ。語学はコスパの鬼なのだ。
スポーツでもなんでも基礎は大事である。本を読むこと、文章を書くこと、語学に取り組むこと、筋トレすること。それらをうまく循環させることができればいいなと思う。もっと滞りなく流れるように生きていきたい。うまくいかない時はうまくいくことに取り組めばいいのだから。
それと同時に間隔を開けるということも大事。ずっとそればかりやってたら飽きる、煮詰まってきて窮屈で身動きが取れなくなって呼吸が苦しくなってくる。つまりしんどい。ちょっとやって煮詰まってきたらまた他のことにちょっと手を出してみる。そのとき前回のセーブポイントより少し前に進めるようにする。そのためにはひとつひとつをきちんとセーブしてから他に手を出す。決してやめてしまわない。いくら間隔が開いても必ず戻ってくる。それが大事だといつも思ってる。短歌
「筋トレと思って語学続けてる」そう言う君の上腕が鬼。
2026年8月19日
左目の白目にできた血溜まりの範囲が広くなってきている。見た目がかなりヤバくてなんか落ち込んでしまっている。こんなに怖いならもういっそこの身体は捨てたいとまで思う。なんでもっと楽に生きられないのだろう。
大丈夫、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。
短歌の本を読んでから何かふとした瞬間に無意識的に脳内で短歌の構成を練っている自分を発見することがある。これもしかして続くやつなん!?ちょっとした興味本位で入門書を読んでみたが、意外とハマったのかもしれない。『なぜオレは、どうして人はどうせ死ぬ 白目のなかに血溜まりひとつ』
『彗星よ あなたの今はそのままでその外のない神につながる』
『今まさにこの瞬間に宿る永遠、幾何学的な神のみぞ知る』
スピノザはこの私の存在の有限性がそのまま神の存在の無限性であると言い切る。私が生まれる前も死んだ後もその現実存在は無くなっても神の永遠性の中に残るものがあるという。今この瞬間が無時間的に永遠であるという。なにしろ神の無限様態の一部なのだから。
スピノザにとってそれは信仰ではなく、そこに論理の飛躍はなく、徹頭徹尾幾何学的に証明されている真理でしかない。
信仰と哲学の分水嶺はそこにある。
今この瞬間しかないし、今この瞬間の中に永遠性がある。一首。
今まさにこの瞬間に宿る永遠、幾何学的な神のみぞ知る
短歌をはじめた
夜空さんがXで紹介していた短歌の本を読んでいる。「若者の間で短歌が流行っている」と最近やたら耳に入ってくる。そして私は若者の間で流行っているものにはなんでも興味津々なおじさんである。何度か小説は書こうとしてみたが書けなかった。しかしどうしても文芸的なものへの憧れが消えない。私も何かやりたい。才能はない。何もない。
日々身体の変化(老い)を感じている。9時間寝ても疲れが取れない。目の調子が悪い。自分に残された時間のことばかり気になる。AIでもなんでもいいから何かを劇的に変えてくれないものか。もしかしたら私は自分を救ってくれる何か(対象X)にただすがりつきたいだけなのかもしれない。その私を救ってくれるであろう何か(X)はおそらく永遠に見つからないだろう。たしかラカンが言っていた。決して取り戻すことのできない原初的な欲動を追い求め続ける生き物が人間なのだと。
一首詠んでみた。取り戻すことのできない時間だけ積み重ねゆく中年の危機。
2026年8月17日
ドゥルーズの『差異と反復』に関するゼミ(勉強会?)に参加することを決めた。Xの参加者募集の投稿をみて気にはなっていたのだが、時間的にリアルタイムでの参加が難しそうなので半ばあきらめていた。しかし昨日衝動的に思いつきで申し込みを済ませていた。最近語学の勉強のフォーマットが固まってきたこともあって少しマンネリ気味だったのか、もしくは未知数な場に自分を放り込んでみたかったのかもしれない。
早速課題として配布されたドゥルーズの初期論考の文章を読んでみた。いつものドゥルーズを読む時と同じ感覚。全く話が入ってこない。文字情報が頭の中でただ流れていくだけでそこにある意味を捉えることができない。それでも一通り読み切った。何がわかったのかはわからないが言葉にならない何かを理解したのかしていないのかよくわからなかった。
ものは試しとその文章のPDFをNotebookLMに読ませて即席でラジオを作ってもらい聴いてみた。少しわかった気がした。いやかなり文章の方向性が掴めたような気がする。このAIの使い方はOK?といちいち自分自身に問う。なんでもできてしまう時代だけにAIの使い道には慎重になるべきなのだ。そうやって一つ一つの文章をゆっくりでも読んでいければそう遠くない将来ドゥルーズが読めるようになってるんじゃないかと甘い考えが頭をよぎる。わかろうがわかるまいが読めようが読めなかろうが続けていくことだけなんだけど、私でも読めるかもしれないと思えただけでも進歩である。楽しみだ。
