
2026年8月16日
ずいぶんと久しぶりの投稿になった。少しずつこちらのサイトも活用していこうと思い立ち、この前サイトのデザインを一新した。よりシンプルで写真と文章をただ置いておく場所という感じがして気に入っている。見返すと最後の投稿は2024年の年末になっている。こちらのサイトはずっと放置していたわけだが、その間いろいろあったなと思う。世の中的に一番大きな変化はなんと言っても生成AIの普及だろう。登場当初は恐る恐る使っていたのも懐かしく、今となっては語学、哲学、日常の些細な困りごとから話し相手までもはやAIが生活の細部にまで染み込んできている。
最近もう一つ運営している哲学のWebサイトの記事をAIを使って書いた。以前だったらそれこそがんばって書いて3日くらいはかかっていただろう内容だが、私が喋った収録音声をAIに読ませて、「ブログ用に記事化して」とお願いすると一瞬で一つ、二つと記事が出来上がった。まさに革命的に効率が良くなったと思う反面、出来上がったブログ記事を読み返してみるとなんだか気持ちが悪い。自分の思いが自分の言葉ではない文章で構成されている不気味さを感じた。そのようなこともあり、めんどくさくてもやっぱり文章は自分で書かなくては意味がないし、そこはAIの使いどころではないんだということに思い至った。私にはこんなことでさえ一つ一つ実際にやってみないとわからない。
AIで書いた記事は気持ち悪いなら消してしまえばいいのにまだ置いている。こういうとき「もったいない」という意識が働いてしまう自分がかなり嫌いだ。内容自体は私が感じたことなのでできるだけ私自身の言葉に直しておいておこうと今は思っている。こういうエッセイ的な文章って難しいなと思う。どうしても自分を飾ってしまったり、あまりにも意味のない文章になってしまったり、なかなか絶妙なバランス感覚が必要だと思う。どれだけ飾らずに書いたつもりでも、読み返すとどこか芝居がかっている気がしてしまう。そういうときは誰かのエッセイや日記的な文章を読むといいかもしれない。今回も福尾匠さんや光枝ういろさんの記事を読んでいて急に書きたくなったのだった。私も自分の言葉で書いていこうと思う。
2024年もあと少し

2024/11/17
今年も残り1ヶ月と少しか。
最後にもうひと頑張り集中力を上げていこう。
哲学の今年中の目標。
今年中に『小論理学』2周目を読了し、三つの付録をブログ記事にまとめる。
『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』の1周目を読了する。
BMXの今年中の目標。
ヒッチハイカー走れるようになる。
ウィップラッシュの2周目に入るためのフレーム跨ぎまでいく。
マックサークルを両足ペグで前に切り返すところまで。
エルクの入りと戻り。
2024/11/24
クライミングを再開してから自分でも信じられないくらいに体調がよい。
哲学もBMXもクライミングも続けることが一番大事だということ。
38年間生きてきて、何が分かったかと問われれば、その3つが自分の本当に「好き」なものであると確信できたこと。この3つのために自分は人生を使いたいと思っているということ。
これから、どれかを辞めてしまわなければならないような状況が訪れないとも限らないが、とにかく辞めてしまわないこと。
一時的に離れることがあったとしても、必ず戻ってくること。
もちろん続けていたらつらいこともあるだろうが、続けていなければ絶対に味わうことのできない感覚や、よろこびを忘れないこと。
身体が動くかぎり乗って、登って、ボケて自分がわからなくなるまで哲学書を読み続けること。そして発信を続けること。
自分にはまだ人生の時間は残っている。






























勝尾寺とダンジョン飯展

2024/09/16
久しぶりにこっちのブログを更新した。
なんか過去の記事とか写真を見直しているとなぜか泣けてきた。
時が過ぎるのは早い。
日々大事に生きているつもりでも、後悔はないつもりでも、過去にあったものや、大切な人がいなくなってしまうのは悲しいことだ。
そんなことを思ったところで時はとまらない。
時間というものはかけがえのないもの。
取り返しのつかないもの。
2024/09/17
マインドセットを変えること
ここ数年の体調不良や不眠は更年期障害なのかもしれないことに気づいた。
気持ちはまだまだ若いつもりでも身体は確実に老いていっている。
体調がすぐれなかったり、夜眠れないことがデフォルトであるという意識に変えないといけないのかも知れない。
不眠上等。体調不良上等。
いちいち体調が悪いことに一喜一憂していたらキリがない。
それでも自分にはやりたいことがまだあるではないか。
2024/09/23
勝尾寺































2024/09/25
そういえば8月末くらいからクライミング再開した。
約5年ぶりくらいになる。
久しぶりにやってみるとクライミングが自分の身体にどういう影響を与えていたかよくわかる。
まずメンタルに良い。
登った日の夜はよく眠れる。
そして5年前よりも体力が落ちていることを感じる。
加齢によるものなのか、それともクライミングを継続していくことで以前の水準まで戻るものなのか現時点ではわからない。
また、その日の体調によって全くダメな日はアップの時点で自覚することができるのは5年前も同じ。
調子いい日はアップの時点で身体が軽い。
数回のトライで落ちてもやる気が持続して、回数を重ねるごとに高度を上げていける日は調子が良い。
テンションが高く、疲れよりも登れるという気持ちが勝っているメンタリティに自然となっている。
登った日の翌日の疲労感により仕事に支障がでるようなことも今のところない。
週一のペースで継続していきたい。
2024/09/26













2024年7月から9月前半くらい

























2024年5月〜6月

2024/05/09
メイヤスーの「有限性の後で」を読んでいる。
これは、スピノザにおける必然主義、汎神論の対極に位置する哲学ではないか。
スピノザにおいては、まず「何かはある」と仮定するところから唯一の実体を論証する。
そして、「必然的な存在者」以外は何もない。
対してメイヤスーは、「何かがある」か「ないか」は偶然であり、その偶然性のみが必然であるという。
「必然的な存在者」以外は、なんでも生じうるし、なんでも起こりうる。
これはヘーゲルの弁証法的な構図にかっちりとハマる。
一方(正)の否定によりもう一方(反)が生じ、さらにその否定(止揚)によって最初の概念がアップデートされる(合)。
この二つの哲学体系を突き詰めることで、なにか新しい概念に到達できるのではないだろうか。
2024/05/09②
偶然性というものを大事にしてしまう性行
たとえば、新刊で買った本の間に挟まっている紐の栞をその状態のまま位置を動かさずにおきたいと思ってしまう。
これはなんなのだろう。
その位置が少しでもかわってしまうと、そのもの自体が毀損されてしまうような感覚がある。
自分のものへの執着の強さの現れなのだろうか。
それともなにか、偶然的に配分された事象に価値を感じているのだろうか。
たとえその栞の位置が少し動いたところで、その本自体の価値が変わるわけではないのに。
いや、自分にとっては価値が変わるのだろう。
2024/05/10 9:49
読書においてすべて理解できなくてもいいんだということ。
それよりも何よりとにかく読むこと。
少しの隙間時間であろうが本を開いて、文字を読む習慣をつけることが大切。
理解は後からついてくるもの。
2024/05/15
「適度」という概念と「差異」という概念
快不快感に関して、すべては程度の差異によるのではないかということ
たとえば、
なにものかの肌への接触による微弱な刺激が発生する→目が痒くなる→不快感
適度な強さで目を掻く→快感
目を掻く強さが一定の閾値を超える→痛みを感じる→不快感
目に野球ボールが当たる→怪我をする→怪我が治るまでの一定期間の不快感が続く
目に矢が刺さる→失明する→一生目が見えない事による不快感が続く
このように程度の「差異」によって主観的な快不快が決まっている。
そしてこれらからわかることは、快感を感じる「適度」な刺激の範囲は思いのほか狭い。
また、ある閾値を超えることによって「生じる結果」に「差異」が生まれるということ
2024/05/28
web上の情報が消えていくということ
例えば10年前にネット上にあった情報で今現在も同じようにアクセスできる情報がどれだけあるだろうか。
日々消えていくwebサービスや、ブログの情報などは、人類の歴史とは違って保存されない。
ただひっそりと消えていき、忘れ去られる。
この状況はいかがなものか。
一度アップされた情報がきちんと年代ごとでアーカイブされるような仕組みにはならないものなのか。
自分が一生懸命書いた記事が自分が死んだら消えてしまうのは悲しすぎる。







































2024年2月〜3月

2024/02/28
最近、急にこれまで読めなかった本が読めるようになった。
ブレイクスルーってやつか。
具体的に書くと、哲学を勉強しだした2年ほど前に買って一回読んで放置していた本を改めて読み直してみると、前回全く理解できなかった本が何を言わんとしているのか、わかるようになっているのを実感しているということ。
2024/03/16
ヘーゲルの止揚という概念について腹落ちした感覚があったので備忘録メモ。
「止揚する」とは、「否定すること」であると同時に「保存すること」
つまり、感覚的確信でいう「今」と「ここ」の感覚がいい例えになる。
「今」も「ここ」も自分自身の感覚としては常に「今」と「ここ」として保存されているが、その感覚される対象の側から考えると、「今」と「ここ」も次の瞬間には否定されているということ。
それは物の性質の面からも説明できる。
「塩」は白くもあり、辛くもあり、ある一定の重さを持ってもいる。このような物質の性質の「〜もまた」という感覚をそのまま上の図式に当てはめることができる。
つまり、白さ、辛さ、重さなどの諸々の性質を考えると、ある一つの性質の面から見て、他の性質は自らの性質の否定である。
しかし、塩という物の面から考えると、塩という物の中に諸々の性質全てが保存されている。
塩という具体的なものが抽象的なものに見えてくるから不思議だ。
塩が「神」で、塩の性質が「様態」である。





倉敷

2024.2.22







































香川

2024.2.21



















岡山観光

2024.2.20












































2024年もがんばるぞぃ

1月はママチャリでこけて怪我して、映画館で「PERFECT DAYS」観て、ピストのハンドルカスタムしてたら終わってた。
2月は、PCデータ消してしまい音楽データ等が消えて、落ち込んだりしたが徐々に生活に落ち着きが戻りつつある。
2024/02/04
なんでこんなに怖いのだろう。
妻がいなくなってしまったら、自分はこの世界でひとりぼっちになってしまう。
底なしの孤独感に襲われるような恐怖心を感じている。
もはや誰と一緒に居ようともその孤独感から逃れられないような気がする。
自分と妻以外の人間に対して、同一の種族とは思えない嫌悪感を抱かずにはいられない。
結婚していくつかの段階を経てきたが、ここにきて新しい段階、感情に動かされつつあるのを感じている。

















