2026年9月5日

朝起きぬけにベランダで本を読んでいた。空気が爽やかで自然と深呼吸したくなるような気持ちのいい季節になってきた。ふと子供の頃夏休みなどに帰省した父方の福知山の田舎の暮らしを思い出す。昼は裏山の竹を割ったそうめん流し、夜は庭でバーベキューを父母や親戚たちとしていた。あの新鮮な空気の香り、水の流れる音。自然と一体化したような平屋の畳の匂い。今となってはもう二度と戻れない。ほんとうの天国とはあのようなものなのかもしれないなと思う。当時はそれがあたりまえで何も考えずその天国を享受していたしそれがいつまでも続くと思っていた。しかしそうではなかった。もう二度と戻ることはできない。けれど私の原体験として深く刻まれているそこでの暮らしを思い出し泣きそうになる。
でもいつまでもそのような桃源郷にはいられない。いつかは皆それぞれの運命にしたがい方々に散っていく。そのようにして私も気づいたら40歳になっていた。人生は短い。つぎにハッと気づいたらもう60歳とかになっているのだろうか。いつかまたあの場所に帰ることができたらいいなと思う。

妻と私は結婚するのが早すぎたのかもしれない。私の方の精神的な準備がまるでできていなかった。どのような成り立ちなのか今やっと少しずつ理解することができ始めたような気がする。それは私が今読書をしたり、アニメを見たり、ポッドキャストを聴いたり映画を観たり、美術鑑賞をしたり、さまざまなことに触発されてやっと理解が追いついてきたようにも思える。あの頃の私は友達がいなかった。今もいないが今は妻がいる。妻がいなかったらアニメも見ていないだろうし、映画も見ていないし、美術鑑賞もしなかっただろう。ものすごく限られた偏狭な世界の中でしか私は生きていなかっただろう。そのような様々に触れてやっと少しずつではあるが自分というものの位置をこの広い世界の中に固定することができ始めたのかもしれない。もちろん固定とは比喩である。万物は常に動きの過程にあるのだから。
SNS的でない様々なものから触発されること、そのことの切実さを思う。その中に自分を突き落としてくれたのは妻だと思っている。そして16年経ってやっと少しずつ世の中が見えるところまできた。私はずっと後悔していると思ってきた。おそらくその後悔しているという自認自体が私の浅はかさの表出であり、それは私にとって手に余る物事だったのだろう。それでもここまで続いてきた。そのことを誇るべきだとも思う。

シットとシッポを聴いていたら福尾さんがベケットの『モロイ』の話をしていたので少し読んでみた。以前にも少し読んでみようとはしたがすぐに挫折した。今回はもう少し喰らいついてみようかと手に取ったがすぐに挫折した。また近々挑戦したい。
大学図書館から帰宅して妻と土間の窓ガラスにスモークフィルムを貼る作業を行った。思ったよりうまくいって安心した。

夜「スーパーの裏でヤニ吸うふたり」を観た。ここ数日の癒しコンテンツ。
第5話まで観た。主人公のおじさんリーマン佐々木さんは職場でもいい人すぎて、いろんな人から仕事振られまくっても断らず、15連勤で午前様でそれでも頑張ってて、唯一の癒しがスーパーの裏で店員の山田さん(田山さん)とヤニ休憩をすることなんだけど、佐々木さんが鈍感でチョロくてそれがなんか憎めなくて、佐々木さんにとっては救いの女神のような山田さんなんやけど、実は山田さんにとっても佐々木さんの存在が大きくなってきていて、両想いになりかけている。そんな感じ最高だわ。

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