ドゥルーズ『差異と反復』ゼミ受講のためにソトのガクエンの月額プランに申し込みをした。過去のゼミのアーカイブ動画を少し観ただけでもかなり勉強になりそうなものが多く、ひとり孤独に勉強してきた身からするとなんともキラキラと輝いて見えた。こんなコミュニティに入って自分も勉強したいという想いはもちろんあるのだが、一方で自分にはおそらくそんなことは荷が重いだろうという気持ちもある。もっと気楽に始められればいいのだが私にはそれができないのだからしかたない。いや元々ただドゥルーズが読めるようになりたいという一心で興味を持ったのだ。あくまでもその気持ちにフォーカスし続けることが一番大切だと思う。とにかく私はドゥルーズが読めるようになりたいのだ。その気持ちだけは絶対に本当だ。この自分の脳みそフル回転させてなんとかしてでも何かを自分のものにしたい。
たとえば次回の『差異と反復』ゼミで何か質問をしたいと考えていて、どうしてもスピノザやヘーゲルに絡めた質問を考えようとしている自分がいる。その心はスピノザやヘーゲルを研究している自分を知って欲しい、という承認欲求的な自我が透けて見える。SNSをやめても承認欲求はいろんなところから入り込んでくる。承認欲求はほんの少しの隙間から私の意識に入ってきて、ふと気づくとそれに心が支配されてしまう。つまり自分を知って欲しいとかよく思われたいという自意識は捨てたいがそれが一番難しいということである。
誰かと集まって、その誰かと関係性をはじめることにはもちろん複数で取り組むことでしか得られないメリットもあるが、そこには私自身の承認欲求がどうしてもが入り込んでしまう。誰かとの関係性の中に身を置くということによって本来の目的を離れその人間関係そのものに拘泥してしまうリスクを考えてしまう。そんなことを考えていたら誰とも関係性をはじめることはできないし、私は自分が得るもの、失うものという観点で物事を考えすぎている。
つまり何事に対しても打算性や損得勘定でしか行動できない私という人間がどうしようもなく嫌いではあるけれども、それをどうしても払拭することができないので、それならいっそ人間関係そのものをできるだけ排除して、自分ひとりでやったほうがいいのではないかという気持ちとそれでも誰かと関わってみたい、一緒になにかに真剣に取り組みたいという気持ちが入り混じっているように思う。
でも結局は「打算性や損得勘定でしか行動できない私自身」の問題であってそれに他者を巻き込んきたこれまでの経験から臆病になっているという感じなんだろうと思う。
このような自己分析をしてみたところで私自身を根本から変えることはできないのがもどかしい。
