妻と朝ケンカしてしまい、ドゥルーズ『差異と反復』ゼミにリアルタイムで参加できなくなった。それでも予習だけはしておこうと思い「何を構造主義として認めるか」を精読した。第一の規準まで読みこんで質問を考えた。そのなかでラカンの理論が参照されていたので「新疾風怒涛精神分析用語辞典」の読み直しを行った。この本を読むのは3回目くらいになるので議論の流れはすでに自分の中に入っている。「そうだったそうだった!」という感じで読み進める。何回読んでもおもしろいしすごい本だと思う。私のラカン理解はほとんどこの本の内容に依るところが大きい。4分の1くらい読めたので満足した。明日と明後日の朝の時間でどこまで読み進めることができるかな。できたら金曜日までにできるだけ読み進めたい。今日は外は一日中嵐のような天気だったし大学図書館には行かなかった。それでもやるべきことはやったと思う。朝のケンカは余分やけど。最近ケンカが多いのは私自身の体調が回復してきたということも要因なのかもしれない。以前は体調が悪すぎてケンカなんてしている余裕もエネルギーもなかった。元気があるからこそちょっとしたことで大きなケンカになってしまうということもあるだろうか。
最終的にお金を完全に分けることになった。ケンカをするごとに毎回何かを少しずつ二人それぞれのもとに分割していっているような気がする。ほんとうに離れるための段階が少しずつ前に進んでいっているのかもしれない。
どこまでこの関係が続くかほんとうにわからなくなってきている。もう私もほんとうに別れてしまっても仕方がない瀬戸際まできているのは自覚しているしそうなっても私自身の責任として受け入れる気持ちの整理もつき始めている。その方がお互いのためになるとも思う。そんなことを言っても実際別れたら私は喪失感に苦しむのかもしれない。でもまったく逆に何とも思わないかもしれない。それは自分の中で五分五分という感じがしていて予想がつかない。なにか楽しみなこととしてぼんやりと想像されるにすぎない。
それにしても遅すぎた。ここまで一緒になんとか頑張ってきたという思いだけが最後、背中を引っ張っているようだ。ここまで頑張ってきて結局別れるのか。もはや夫婦としてはお互いに気持ちが終わっているのは重々自覚している。それでも続けていくことに何か意味はあるのか。答えは出ない。ネガティヴケイパビリティ?エポケー?そういってお茶を濁していられる時期はもうとうの昔に過ぎていたのに。
