
Fuji STROLL

2022/10/01
ピストバイクを新調した。
フジのストロールがベース車体。
ペダルを三ヶ島のオールウェイズに変更。
フロントラックにADEPTのトラスポーターラックを取り付け。
主な用途が通勤の足と近所を流す下駄なので、実用性重視。
見た目が完全にツボで、なかなかに理想的な仕上がりとなった。
そして、初めてのピストの乗り味はかなり独特。
止まるのが怖い、フリーギアのように自由にペダル位置を調整できないので難しい。
不意に足を止めてしまうと、身体ごと上に押し上げられる感覚がこわい。
バックを踏む感覚なんてわかるわけもなく。
ただ独特の一体感、操縦感というのはなんとなく感じた。
ピストはたぶんフリーギアより不便なんだろう。
でも、その不便さは本来の自転車が持っている特質に、人間側が合わせていくようなものだろう。
ピストでは、ペダルの回転に人間側が合わせて足を動かしつづける必要がある。
フリーギアよりも動作において意識するポイントが一つ増えるような感覚。
楽をさせてはもらえない代わりに、自転車を漕ぐこと自体の楽しさがワンランク上がっている感じ。
伝わっているだろうか。
発進時にフリーギアのような遊びがないので、よりクイックに発進できるのがノンストレス。
漕ぐのが単純にたのしーって感覚。
これは通勤以外でも乗りたくなる奴。





4連休

2022/09/22
4連休初日
朝チャリ。
ハイドラントからエルクへの入りと、マックサークルに今までにない感覚があった。
手には体重を乗せず、かといって引かず、少し曲げるくらいにして脱力。体重はすべて前輪に乗せる意識。
そういえば、ここ2ヶ月くらいSNS断ちしてたけど最近インスタも、ツイッターも再開した。
主にインスタはBMXの動画視聴ツールとして、ツイッターは哲学の情報収集と、モチベアップに使うこと。
だらだらとは見ないことを心掛けたいけどすでに負けつつある。
どこかの何かからの引用。
『創造するもののみが真に生きると言いうるからである。その意味において、哲学するもののみが真に生きると言いうるのである。』
『世の中には、神を信じる者、道徳を信じる者、真理を信じる者がいる。人は大抵その信念の「強さ」を信念の「誠実さ」の証しのように思い込んでいるが、実際は無数の対立し合う「信念」が存在しているにすぎない。根本的なのは、各人が信じているその内実ではなく、誰もが何かを信じざるをえないという事実だけである。』
2022/09/23
しかしなんと自分の心は変わりやすいものか。
少し前までの自分と今の自分はまるで別人ではないか。
本当に自分ほど信用できないものはないな。
本当になくしたくない気持ちがあってもいつかは必ずなくなってしまう。
そしてまた、繰り返す。
生成変化、無常、永劫回帰。
2022/09/24
朝チャリ。
マックサークルが新たな次元に入りつつある。
よき。
「ここで乗るのやめてね」と警備員に言われる。
つらい。
昼からガーデンズぶらつく。
Tシャツを一枚購入。
スーパーの寿司と、水野家のコロッケがやたらとうまくてちょっと感動してる。
2022/09/25
朝チャリ乗った。
カヌレを食べた。
瞑想をした。
洗濯をした。
本を読んだ。
カツ丼を食べた。
本屋に行った。
そして今、ベランダから花火を見てる。











瞑想と写真
2022/09/20
朝チャリ乗って、瞑想。
生まれ変わったかのように気分がいい。
ここ最近味わったことがないほどの穏やかな心地になっている。
瞑想の習慣が生まれたことだけ考えても、今回のコロナからのメンタル不調には意味があったと思える。
今を意識すること、今に生きることだけできればこんなにも気持ちが楽になるとは。
2022/09/21
最近また写真への興味も復活してきつつある。
というか、前みたいに気張った感じではなくもっと気楽にもっと楽しくもっと日常に寄り添って写真と付き合えそうな気がしている。
写真って今この瞬間を意識して、保存する行為だよな。
きっとカメラって壊れるのを恐れてケースにしまっておくものではないんだろう。
常に身近に置いておいてふとした瞬間ただシャッターを切る。
それに理由はなくとも良い。
自分が良いと思った瞬間でもいいし、良いと思わなくともなんとなくでも良い。
ただシャッターを切りたいから切るでもよい。
思うままに撮れば良い、と思う。
そこに意味なんてなくて良い、人生と同じように。


3連休

2022/09/17
朝から少し声でづらい。
週末の仕事終わりはいつもメンタルが落ちる。
3連休やけど台風来てるから、どこにも行けない。
じっくり瞑想しよう。
とか言いつつ、ABCマートアウトレット行って、2足目のスーパースターを購入。
チャリ乗りてー。
指治れー。
ところで、生活を立て直さなくてはいけない。
また、がんばろう。
2022/09/18
朝からコロナの県民共済金の請求用紙書いて、瞑想して、少し家事。
左手中指はよくなってきてるけど、まだチャリ乗れるほどではない。
「何かわかりづらいチャンネル」さんのYouTube視聴。
今後の世界は、時間が有り余る代わりに、資源(物、金)が希少になっていき、人々の関心も文学、芸術、哲学などに向かい、中世の清貧な哲学者のような人々が増えるとかなんとか。
今日はスピノザでも読むか。
しかし、瞑想しだして冷静になってみると本買い過ぎてるな。
一旦落ち着いて、今ある本たちを読み込んで自分のものにしていく作業が必要かと思う。
なんというかあたりまえのことで、すでに自分自身理解していたことではあったけれど、手軽になんのリスクもなくインスタントに満足感を得られることなんてなくて、あったとしてもそんなものはまやかしで、やっぱり自分は愚直に目の前にあることにひとつひとつ取り組んでいくことしかないということ。
その際に自動操縦的に、無意識的にやるのではなくあるがままの「今」を意識すること。
自分が好きなことを心から楽しむこと。
そしてその楽しさを発信すること。
あと、思うのは読書に関して先を急ぎ過ぎているのではないかということ。
もっと一文一文噛みしめるように、自分のペースでじっくり読んでいけばいいのではないか。
早く、大量に読めばいいってものではない。
2022/09/19
三連休最終日。
朝少しBMXに乗る。
指は乗るのに支障ないくらには回復した。
常に前輪のステムの真上に重心(みぞおちのあたり)が乗ってる状態を意識すること。
雨が降ってきた。
今日も瞑想して、スピノザを読もう。
スピノザは徹底的に自由意志を否定している。
自分が行った行為とか、自分で考えて意志して行動していると思っていることなども、我々が行う全ての思考や行動は、原因と結果の因果関係の無限の連なりの結果であって、自分が自らの意志で決定していることなどは何もない。
「自分の行動は自分で決めている」という考えは間違いである。
人間に意志の自由はない。
ニーチェによれば、「事実」それ自体なるものは存在しない。ただ「解釈」が、多様かつ無数の「解釈」だけが存在する。
真偽も善悪も美醜も人間の解釈にすぎない。







ここ数日
2022/09/15
昨日は30分程度の瞑想を4回くらいした。
劇的に精神が安定の方向に変化していることを実感。
咳の症状、声の出にくさも改善に向かっていると感じている。
自分でも驚くほどの効果が実感できている。
2022/09/15 8:32
ここ数ヶ月仕事と自転車以外では、ひたすらに哲学書を読んでいた。特にコロナになってからはそれこそしんどくても、他にやることもなく、とにかくただただ読んでいた。コロナの待機期間が開けて仕事復帰してすぐに声が出なくなった。
どうやらコロナの後遺症という訳ではなさそう。その頃は精神的な落ち込みもひどく、心因性咳嗽が疑われた。一昨年も同じような症状が出ていた。処方薬を飲んでも改善していかなかった。
それが瞑想を始めて2日目で症状が改善した。
久しぶりに自分自身に帰ってきたような感覚があった。
読書している時間は、文章と概念に集中するので、自分自身からは離れてしまうのだろう。
ひたすら本を読んでも、それだけでは心が今にあらずになりダメとわかった。
2022/09/16
朝、BMXで左手中指を突き指した。
結構腫れてきて痛い。
瞑想を45分した。
30分過ぎたくらいから、身体を動かしたくなってくる。
でもなんとか、呼吸に意識をつなぎ止め45分は座り続けることができた。
自分というものに安らうという感覚が少しわかる。
別に何かにならなくてもいいんだ。
常に何かをしていなくてもいいんだ。
それが腑に落ちる感覚がある。
瞑想再び
昨日はここ数年で一番メンタルが悪かった。
仕事で、声も出づらいし、気分は落ち込んでるし、自信がなかった。
しっかりせねばと思えば思うほどだめだった。
処方された薬は飲んでいるが、効いてるのかわからない。
あまりにも気分が落ち込むので、夜にひさしぶりに瞑想をしてみた。
30分、ただ呼吸の感覚に戻ってくる。「今」感じている感覚をあるがまま意識するように努める。
気持ちが楽になった。
ここ最近、哲学書と格闘していたが、根を詰めすぎたように思う。
言葉と概念の洪水に自分が押し流されていた。
自分を見失っていた。
シンプルにあるがままの自分を見つめる時間が必要であると気づいた。
今、自分が壊れるわけにはいかない。
瞑想、続けてみよう。
咳とラカン
やっとコロナ治って元通りと思ってたら、咳の症状の再発。
体調はいいのにしゃべろうと思ったら咳が出る。
思えば一昨年も同じ症状に悩まされたんだ。
医者で前回と同じ漢方薬もらってくる。
夜眠れていないのではないか、肩周りの筋肉がガチガチに固まっていると言われたがどうしろと。
こちとら必死に生きとんじゃい。
などと思いつつも、心当たりがないわけではない。
いろいろと抑圧している思いもありますし、そのあたりが関連しているんだろうなと予想はつく。
タイムリーにもラカンを読み始めたところだったので、精神分析を自分のこととして
実感しながら読んでみようかと思う。
現時点での教訓
「人間には授乳体験のような原初的な満足体験が刻まれている。もし仮に自らの欲を満たすことが叶ったとしたところで、「何かが足りない」という思いが消え去ることはないという事実。そうした反復行為は原初的満足体験を100%繰り返すことはできない。人は原初的な満足体験で得た享楽を取り戻すために、代用品を求め続ける。しかし、享楽はすでに失われ、不可能なものと化しており、反復行為は常にどこか欠けたものとならざるを得ない。」
コロナ日記
8月13日(土)
昼過ぎから喉の痛み。夜一気にしんどくなる。38.9度。頭痛、関節痛ひどい。
8月14日(日)
熱は高いまま。(38.7度)関節痛ひどい。一日中ベットに寝転がってるしかできない。身体を動かすと痛い。ほぼ記憶がない。
8月15日(月)
夜は寝れた。朝起きると熱も下がっている。(36.9度)午前中熊野病院でPCR検査受診。
喉の痛みが出だした。唾を飲み込むと喉が痛い。咳も出だした。
夕方「陽性」判定。
夜に微熱が出だす。(37.2度)
千葉雅也「動きすぎてはいけない」読み始める。難しい。
8月16日(火)
朝方、全身関節痛で目が覚める。喉の痛みひどい。唾を飲み込むのがつらい。
熱は微熱。
薬を飲んだら関節痛は嘘のように収まる。
下痢。
「動きすぎてはいけない」をただひたすらに読み進める。
ほとんど理解はできていないが、それでいい。
BMXも最初は全く理解ができない。それでもやり続けたら必ずできるようになる。理解できる瞬間がくる。
ドゥルーズもわからないなりに読み続けたら、必ず理解できる時がくる。そのときまで淡々と読み続けるのみ。
昼過ぎくらいからは、普通に集中して読書できるくらいには回復した。
8月17日(水)
腰から下半身にかけての背中側が全体的に痛む。喉の痛みはマシになってきた。熱は平熱〜微熱。
「動きすぎてはいけない」をわからないなりに読み進めるが、長い。というか理解がおぼつかないので読むスピードが上がらない。
8月18日(木)
午前中は下半身の神経痛が残ってたが、昼過ぎにカロナールを飲んでからは治まった。
日常生活に支障が出るような症状は全て治ったと思う。
「動きすぎてはいけない」は4章に入って少しスピードアップ。どう考えても入門書ではないが、また戻ってきたときに、成長が感じられそうで楽しみ。
一日が飛ぶようにすぎていく。
8月19日(金)
少しの咳と、喉の不快感と、関節痛だけが残ってる。
「動きすぎてはいけない」は8章まで読了。
読む大変さと充実感が釣り合っていない。
つまり、あいかわらずほとんど理解できていない。
なんとなく言いたいことは「中途半端の美学」っていう感じか。
8月20日(土)
咳と喉の不快感。
「動きすぎてはいけない」読了。重い、長い、疲れた。
結局何が言いたかったのか、わかったようなわからないような。
これは自分にとってのドゥルーズの入口であり、出口なのではあるまいか。
基本的にわからないことが書いてある書物をなんとか理解しようと、文脈からニュアンスと主張を掴み取ろうと必死こいて食い下がるが、そもそも引用されている哲学者の概念(ヒューム、ベルクソン、ラカン等)を理解していないので無理のある話。
スピノザのような人生訓めいた甘美さはまったくなく、ただただストイック。
「ドゥルーズを『活用』する!」を読み始める。
8月24日(水)
自宅待機期間最終日。
咳と喉の不快感以外は完治。
この間ドゥルーズ関連書籍3冊を読了。(千葉雅也「動きすぎてはいけない」、澤野雅樹「ドゥルーズを『活用』する!」、國分功一郎「ドゥルーズの哲学原理」)
ラカン、フロイトあたりの精神分析の前提知識がないため理解できない箇所がもどかしい。
ただなんとなくの全体像というものはイメージできたように思う。
ここからさらに次の書籍に進みたいものだが、いかんせん最近本買いすぎてるので自重して、一旦ヘーゲルあたりに戻って積読してる精神現象学をやっつけるか。
哲学つづいてます。
自分が大学時代に読んでいた本は、近代日本の思想書が多かった。今考えると、ある意味哲学書を読んでその人の哲学体系を学んでいたようなのものだが、底が浅かった。というより哲学体系というよりは人生訓というものの枠にとどまったものであった。
十数年たった今、西洋哲学を読んでいると、当時読んでいた体系とか処世訓の表面的なことが思いやられる。その考えや、行動がなぜいいかを突き詰めて考えることはせず、あくまでもそのほうが人生うまく行きますよ、楽に生きられますよ、と促しているものだったように思う。実は水面に現れているその考え方や、実践に到達するまでに、水面下では、膨大な哲学者たちの苦悩や、思索があることを知らなかった。
その水面下について、より根本的に世界の根源とは何か?自分とは?認識とは?、と突き詰めていくことが哲学という分野ではなかろうか。
カントからヘーゲルを経て、スピノザへと進んだ。そして興味はニーチェ、ドゥルーズへと向かっている。
興味はどんどん先に進みたがるが、現実にできていることは、一人一人の哲学体系の表面をなぞっている程度のものだろう。
本当に大切なことは、自分がそれらの書籍を読んでどう感じて、どう考えたか。
一度読んだことを忘れてもいいじゃないか。しょせん自分の記憶力では大して覚えてはいられまい。
でも、その本を夢中になって読んでいる瞬間は確かだ。
その瞬間に自分がこころから感動しておればいいではないか。
逆説と、本当の優しさ
朝
今日はなんかすっきり寝れなかった。
つまり眠い。
ヘーゲルの入門書は思っていたよりはるかに難しい。
「実体=主体である」というのが、まだまだ腑に落ちない。
1回目なのでひとまず読み通すつもりで分からなくともどんどん進んでいる。
今日は雨でBMXに乗れない。
朝、雨が降っていて少し安心した自分がいた。
練習場所に着くまでは、乗りに行くのがめんどくさく感じてしまう。
やり始めると夢中になってやってるのにね。
自分が考えることを、取り止めもなく書いていると自分ってつくづく大したこと考えてないんだなぁ
と実感してしまう。
夜
毎日毎日同じような仕事。同じようでいて違う仕事。
一つ一つ大切にしてこなしていこう。
今日は二度と来ない。
人に優しくあるためには、誰かを助けてあげられるためには、
自分自身が強くしっかりして、心に余裕があらねばならない。
そういう人に自分はなりたい。
本当の強さとは何か。
本当の優しさとは何か。
本当に苦しい場面に、率先して飛び込んでいかねばならない。
