ドゥルーズゼミ次回への思考

ドゥルーズゼミ前回のテーマとしては「記号界においてある一手が加わることで『全て』の配列が変化する」ということであった。

ここで言われる『全て』とは何か?
自分自身を外部に置き、外から全体とその部分を考えるなら(チェス盤を外から眺めているイメージ)、そこでの全体とは部分にすぎず、そのように考えていくと永遠に終わりのない(外部のない)無限を考えざるを得ない。そのような直線的にどこまでも終わりなく直線的に続いていく無限をヘーゲルは「悪無限」と言って批判してそれと対極にある「真無限(始まりと終わりが一致する円環の像をイメージさせる無限)」を立てた。

もし「一手を加えることで全ての配列が変化する」ということの成立条件としてその「外部のない無限」が要求されるならば、あきらかにそれはヘーゲルの言う『悪無限』であり、ドゥルーズはヘーゲルのいう悪無限を想定していたことになるのか?

それとも限定された『全体』(チェス盤を外から眺めているイメージ)つまり「外部のある全体」を想定しており、それが無限個あるようなイメージなのか?

そのような「無限」と言う概念をめぐってもヘーゲルとドゥルーズは対立関係にあったと考えていいのか?
まさにドゥルーズはヘーゲルの全体性とか同一性を批判したと考えると辻褄は合うし、ここでヘーゲルの無限概念と対立していること自体は辻褄が合うような気もする。

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