2023/06/24

クライミングとBMXフラットランドは確かに違うが何が違うのだろうか。

クライミングにおける体験はある意味、岩ありき、壁ありきである。

その岩や壁と自己との関係性に尽きてしまう。

そしてその関係性は(特に自然の岩に関しては)自分が対峙する岩ごとによって毎回変わり、求められる能力も違う。

我々はあくまでもある特定の岩や壁を登るのであって、そのホールド配置や悪さに規定されてしまう。

ただし、壁や岩が変われども、自分の身体だけを使って登るという意味で、基本的にやっていることは同じと言える

BMXフラットランドでは、路面の環境とかの影響を受けるとはいえ、主には自分と自転車との関係性が問われる。

パーツを変えることで乗り味とかは変わるが、基本的な自転車としての機能は同じである。

クライミングよりも外的な要因によるパフォーマンスの変化が少ないとも言えるのか。

自己と自転車との関係性の中で、長い年月をかけて自分の表現したいトリックを構築していく。

そういう意味ではビーストメーカーはより環境に規定される度合いが少ない体験ではないだろうか。

ビーストメーカーでのパフォーマンスは世界中どこで行っても比較可能で、計量が可能とも言える。

2023/07/04

久しぶりに書く。

暑い毎日ながらもなんとか継続して乗っている。

最近は「上半身の脱力」がテーマになっている。

「上半身を脱力」させたまま乗れるバランスが最も最適なバランスポイントなのではないかと。

ただ脱力を意識するのではなく、上半身を脱力できる体勢を探すというか、上半身を脱力したままでバランスをとれる重心に居続けることを意識して練習している。

哲学に関してはスピノザに帰ってきた。

スピノザの哲学は全てが神の中に含まれており、その神から溢れ出るような形で、様態としてそれぞれの人間が存在していると考える。

それは自他の境界が曖昧になってくることでもある。

自我の主張とか所有の感覚が弱まってきて、他人とか、自分の外にある世界も含めてすべて自分ごととして認識できるようになるのではないかと思った。

スピノザもホワイトヘッドも通時的な中にある「もの」的な概念ではなく、刹那的なもの、時間では表せない「こと」としての哲学を展開しているのではないか。

通時的になにかが存在しているのではなく、「消滅」と「客観的不滅性」。

刹那的に生まれては消えていく、ただし一度生まれたことは無限に広がる因果関係の平面の中に組み込まれて、永遠に生き続けるとも言える。

2023/07/04

『スピノザ学基礎論』を読んでいる。

人間が作った巨大なダム施設を見たときのような圧倒的な驚きに襲われる。

こんなものが人間に作れるのかと。スピノザすごすぎる。

その完成された緻密な体系を垣間見て純粋に美しさを感じた。

スピノザ自身が言葉にしていない背後の理論までも構築する筆者の力量に畏怖する。

いつまでも完全性の中に浸っていたい。