ある意味で現代人は自由の刑に処せられているのではないか。
そして誰しも、「誰の前にひれ伏すべきか?」という悩みを抱えている。
それは自分も例外ではなく。
現代という時代は、「もはや議論の余地なく無条件に、全ての人間がいっせいにひれ伏すことに同意する」ような、そんな相手がいなくなっていると思う。価値観やそれぞれの帰属意識が多様化し、だからこそ皆混乱し誰にひれ伏すべきなのか、わからないでいる。
「この「跪拝の統一性」という欲求こそが、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみに他ならない」とドストエフスキーも書いている。
おそらくだが、ドゥルーズらが言っていることは、「跪拝の統一性」を各人が持つ必要はないんだよ、というメッセージではないだろうか。「逃走線」という考え方、一つの価値観、コミットする対象にしばられることなく、あっちへフラフラ、こっちへふらふらするような生き方こそ本来の人間の生き方ではないか、また同時に複数の価値観を行ったり来たりすること、物事をみる観点をたくさん持つことこそ重要である、と考えたのではないか。
例えば、自分のことを振り返って考えてみても、「自分が打ち込むべき対象にコミットしてもいいんだ」と思えた時、そこに人生の時間を費やしてもいいんだという感覚を心から持てた時、どんなにか安心感を得ることができただろうか。それはある意味では、生まれた時から身に備わっている自由という贈り物を譲り渡せる相手を見つけることができたことからくる安心感ではなかったか。
『なにしろ、人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな。何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう。』
カラマーゾフの兄弟「大審問官」の章より。