2024/05/09

メイヤスーの「有限性の後で」を読んでいる。

これは、スピノザにおける必然主義、汎神論の対極に位置する哲学ではないか。

スピノザにおいては、まず「何かはある」と仮定するところから唯一の実体を論証する。

そして、「必然的な存在者」以外は何もない。

対してメイヤスーは、「何かがある」か「ないか」は偶然であり、その偶然性のみが必然であるという。

「必然的な存在者」以外は、なんでも生じうるし、なんでも起こりうる。

これはヘーゲルの弁証法的な構図にかっちりとハマる。

一方(正)の否定によりもう一方(反)が生じ、さらにその否定(止揚)によって最初の概念がアップデートされる(合)。

この二つの哲学体系を突き詰めることで、なにか新しい概念に到達できるのではないだろうか。

2024/05/09

偶然性というものを大事にしてしまう性行

たとえば、新刊で買った本の間に挟まっている紐の栞をその状態のまま位置を動かさずにおきたいと思ってしまう。

これはなんなのだろう。

その位置が少しでもかわってしまうと、そのもの自体が毀損されてしまうような感覚がある。

自分のものへの執着の強さの現れなのだろうか。

それともなにか、偶然的に配分された事象に価値を感じているのだろうか。

たとえその栞の位置が少し動いたところで、その本自体の価値が変わるわけではないのに。

いや、自分にとっては価値が変わるのだろう。

2024/05/10 9:49

読書においてすべて理解できなくてもいいんだということ。

それよりも何よりとにかく読むこと。

少しの隙間時間であろうが本を開いて、文字を読む習慣をつけることが大切。

理解は後からついてくるもの。

2024/05/15

「適度」という概念と「差異」という概念

快不快感に関して、すべては程度の差異によるのではないかということ

たとえば、

なにものかの肌への接触による微弱な刺激が発生する→目が痒くなる→不快感

適度な強さで目を掻く→快感

目を掻く強さが一定の閾値を超える→痛みを感じる→不快感

目に野球ボールが当たる→怪我をする→怪我が治るまでの一定期間の不快感が続く

目に矢が刺さる→失明する→一生目が見えない事による不快感が続く

このように程度の「差異」によって主観的な快不快が決まっている。

そしてこれらからわかることは、快感を感じる「適度」な刺激の範囲は思いのほか狭い。

また、ある閾値を超えることによって「生じる結果」に「差異」が生まれるということ

2024/05/28

web上の情報が消えていくということ

例えば10年前にネット上にあった情報で今現在も同じようにアクセスできる情報がどれだけあるだろうか。

日々消えていくwebサービスや、ブログの情報などは、人類の歴史とは違って保存されない。

ただひっそりと消えていき、忘れ去られる。

この状況はいかがなものか。

一度アップされた情報がきちんと年代ごとでアーカイブされるような仕組みにはならないものなのか。

自分が一生懸命書いた記事が自分が死んだら消えてしまうのは悲しすぎる。