『千のプラトー』「1 序ーリゾーム」を昨日から今朝にかけて通読した。福尾さんの講義のおかげで大枠の方向性がわかっているので、なんとか話の流れを掴んだまま読み終えた。ある知らない固有名詞が出てきた時にそれをひとまずXとかYと置いて、それぞれが何か他の概念と対立構造にあり、それらに対して何らかの価値判断がなされているんだ、と思いながらとりあえず読み進めるということ、そういった構造を意識しながら読むだけでもこれまでとは全然違う読み方ができるということを知った。これは全ての読書において応用できるな。
また「読む」ということに対してのハードルを上げないということ、本を「眺める」くらいの意識でいいんだ、ということを哲学研究者のリアルな発言として聞くと説得力がある。というか「それでいいんや〜」と気持ちが軽くなった。「本を読む」ではなく「本を眺める」という表現はすごく好きだ。別に理解できなくてもよくて好きな本をただ眺めているだけでもいいんだ。それなら私にも難しいけど読みたい本を眺めることから始めることができる。「理解しなければ読んだことにはならない」という固定観念自体がある種ツリーとしての読書なのではないか。リゾームとしての読書は「本を眺める」うちにその中の言葉や概念が全く別のなにものかと接続して線が引かれることにあるのではないかと思った。
大学図書館にて第3回ドゥルーズ『差異と反復』ゼミの予習をした。第二の規準を精読していくと特に「循環」という言葉が気になった。「無意味は構造内部を循環しながら、意味に値を与え意味を産出する」これだけ読むと特定の無意味な何かが構造(記号界)内部を循環することで常に意味が産出され続けているようなイメージ(空白のマス目、スライドパズル)を持ったがそれで合ってるのか?それとも特定の何かの循環を想定するのではなく「新たな素材の追加(あるいは削除)がそのつど全体のありようにフィードバックされる素材と素材の外在的関係の操作=アレンジメントのことを言っているのか、わからなかったので次回の勉強会で質問してみようと思う。
