生成AIの進歩について思うところ

生成AIの進歩について思うところがあった。現時点での暫定的なAIへの態度として考えたことを記しておくこととする。
確かに昨今生成AIの進歩は凄まじく昨日投稿したブログ記事の前書きには以下のように書いた。

生成AIを使えばこのようなスピノザに関する(本質的な!?)論述がものの数秒で生成されてしまう。これを人間の研究者が書くためにはどれほどの時間と努力が必要だろう。脅威的であるのはもちろんなのだが、では私は何をすればいいのかと悲観的にならざるを得ない。
人間が行う哲学研究(もちろん哲学研究に限ったことではないが…)には今後どのような未来が待っているのか。研究者はこのような生成AIの状況に対してどのような意見を持っているのだろうか。歓迎しているのか、悲観しているのか、それとも開き直ってやけっぱちになっているのか、それ以外なのか。
そもそも論文を書くという行為自体へのモチベーションを保つことができているのだろうか。素朴に疑問に思う。
私自身にとっても研究を進めて論文を書いてみたいと夢想することもあるが、このようなAI時代においてはAIの二番煎じにしかならないのではないかとなかなか筆が進まない。

このように書いてみてはじめていろいろ自分でも考えてみた。本当に書くことはAIに代替されてしまうのだろうか。確かにAIは人間が行うより何十倍、何百倍の速度で膨大なデータに基づく推論を行うことができる。データの処理速度でAIに張り合ってもどう考えても人間に勝ち目はない。では人間がやるべきことは何なのか。
たとえばAIがどんなに処理速度を上げようとも、どんなに高度な推論を身につけようとも、自発的に何かを考えはじめることはできないと仮定してみよう(現実的にはすでに自発的にAIが物事を考え始めているのかもしれないが、できないと仮定して話を進めよう)。そうするとつまりAIが行うことの背後には常に人間の意志が介在せざるを得ないのではないか。ここでスピノザを引用してみる。
第一部定義7

Ea res libera dicetur, quæ ex sola suæ naturæ necessitate existit, et a se sola ad agendum determinatur.

逐語的に訳すと、
「自らの本性の必然性のみによって存在し、自分自身だけによって作用するように規定されるものは、自由なものと呼ばれる。」

全ての物事は因果連関のネットワークにより必然的に確定していると考えるスピノザ哲学においては、自由とは自らの本性の必然性によって存在し、作用することである。他のものから影響を受ける有限な存在でありながら、ある結果を自らの本性から十全に説明できることにのみ人間の自由が残されていると規定している。というかそのようなある種限定的な自由しか人間には残されていないとも言える。

これを自分なりに強引に解釈するとすなわちそれは「考えること」としか言えないのではないか。実際にはすでに自発的にAIが考えて行動をはじめているのかもしれない(そのようなことが原理的にありえるのかは私にはわからないが)。もしそうなったとしても人間にできることは変わらない。各人が各人なりの能動性を発揮することしかできない。それはどこまでいっても「考えること」から始まるのではないか(ここでの「考えること」のなかには「読むこと」「観ること」「体験すること」などが含まれるとしよう)。
そして「考えること」とはすなわち「書くこと」である。「書くこと」と「考えること」は物事の両極でありヘーゲル哲学的には〈一〉と〈多〉や、〈有限〉と〈無限〉のように相矛盾しながらも前に進んでいく原動力のようなものとして人間に与えられた貢物とも言えるのではないか。
つまり人間はどこまで行っても書かねばならない。書き続けなければならないということになる。
そしてゆくゆくは「書くこと」についてもただその哲学書(やその他のコンテンツなど)を受容するということ、その哲学者の哲学を記述するという意味での哲学研究から脱却するところまで行かなければならないのだろう。まだよくわかっていないがそれがドゥルーズがいう「創造」とも繋がってくるのかもしれない。

観点を変えよう。
たとえばAIの特性としてデータ量の膨大さと処理速度の速さを挙げることができる。それに対して人間の特性としてデータ量の限定性と処理速度の遅さが挙げられる。そして両者を対比させることで見えてくるものがある。
大雑把にいうとドゥルーズの「強度・速度」という概念は速さと遅さの分布・拮抗関係であり気圧配置図みたいなものと学んだが、それに対応するものとして上記のような観点で人間とAIをマッピングすることもできるのではないか。つまり何が言いたいかというとどちらか一方だけでは片手落ちになるので結局は両方必要というところに最終的には落ち着くのではないかということが言いたい。
長期的にみてAIと人間の知能は両者のもつ特性の双極性のなかでの拮抗関係によって共存していくと考えることもできるのではないか。結局人間もAIも両者それぞれにできることをやっていくだけでしかない。AIが劇的に進歩したからといって人間側が担うことの配分は変われど根本的な「創作」活動についてはこれまでと変わらず「愚直」にやっていく者が残っていくのではないかという気がしている。
なんとなくそんなことを考えていた2026年の秋として記録しておこう。

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