もう一本AIで哲学ブログ用の記事を作って公開した。哲学研究という分野で人間の研究者にできることはなんだろう。最近そんなことばかり考えてしまう。おそらく研究成果という観点で考えると物事の本質を見逃すことになる。人間の地道な研究成果という観点では当然ながら人間の成長やその過程が考慮されることはない。AIにできることと人間にできることを天秤にかけたとき、すでにAIにできることが人間のそれを上回っており、今後その差は指数関数的に広がっていく。その事実は事実として受け入れなければいけない。それでは10年後20年後を見越したときに今から何に取り組むべきなのか。もしかしたら近い将来だれも学術論文なんて馬鹿馬鹿しくて書かなくなってるかもしれない。だれも本なんて書かなくなっているかもしれない。十分にあり得る世界線に思える。本は人間が書くものではなくなっているかもしれない。そもそもこの世から物理的な本屋すら無くなっているかもしれない。物理的な書籍や執筆なんてものは一部の好事家の趣味の領域でのみやり取りされるようになっている。そんな世界は今のAIの進歩を考えると十分に地続きな未来に思える。
そのような世界における個々の人間たちは何を考え、何に自らの有限な資源を振り向けているのだろう。
スピノザは『エチカ』第一部定義7で、自由なものを次のように定義する。
Ea res libera dicetur, quæ ex sola suæ naturæ necessitate existit, et a se sola ad agendum determinatur.
「ただ自己の本性の必然性のみによって存在し、自己自身によってのみ作用するように決定されるものは、自由なものと呼ばれる。」
自分にとって必然性のある対象に自らの資源を振り向けること。そこにあるのは「誰にとっても」価値のあることではない。普遍的な価値や評価はAIが担う領域だろう。そこにあるのは絶対的なものではないだろう。「個々人にとっての」という相対性、個々人にとっての意味、価値、過程が重視される。つまり「個々人がどう感じるか」が幅を利かせることになる。そこに現れるのはスピノザ的人間像であり決してヘーゲル的人間ではないだろう。ヘーゲル的人間はAIとともに滅びる運命にあるだろう。
