
波形
引越しをした。種々さまざまな業者の人々が出入りをした。最終的に二人が残された。片付けをした。親戚関係がやってきては去っていく。そしてまた、二人になるのだろう。その頃には一度大きくなった波形が少しずつ収まってくる。非日常に慣れていく。で、その後はどうなるの?何かが根本的に変わるの?そんなことはないだろう。生活に魔法はない。全ての祭りの後には、ただ生活が残るのだろう。演技
常に演技をしている。自分で作り上げたキャラクターを守るために演じている。
素の自分なんて、陰気で、自分さえよければそれでよくて、性格のわるい奴だ。でもそれでは、日々が立ち行かない。差しさわりってものがでてくる。だから、円滑に流れていくために演じている。そっちのほうが心地よいのだ。
だから、性悪説を信じている。
人間関係がリセットされるタイミングというものがある。そのタイミングでキャラを変えているのだ。「どっちのほうがより円滑に、心地よく過ごせるだろうか」を考えて、「じゃあ、今回はこのキャラでいこう」を無意識的にやっているのだ。
そんなことを繰り返していると、どれがほんとうの自分だったかわからなくなってくる。素の自分を見失って、演技中の自分を素の自分と混同する。
自分を見失う。表現欲
自分を表現したいという欲望がある。自分にしかできないことを表現してみたい。
自分にしかできないことって何なのだ。僕の独自性とはなんなのだ。
数年前まではクライミングでそれをしようとしていたと思う。でも結局やっていることは、凡庸なことで些末な承認欲求を満たしているだけだった。
そこに限界を感じ、ロードバイクを始めた。写真を始めた。同じことだった。常に承認欲求に付け回されている気がする。
僕は何がしたいんだろう。自分にしかできないことをやりたいのか、それとも、誰も成し遂げていないことをやりたいのか。
いや、そのふたつはイコールか…何かを成し遂げることなのか、何かを理解することなのか。
理解することと、表現することは方向性が違うのか。「どうせ人生なんて大したもんじゃないのだから。」ともっと気楽に深く考えずに生きるのが正しいのか。
正しいとは何なのか。正解を選択することに意味はあるのか。
どうせ人生は有限なのに。てへぺろ。『良い日』と『悪い日』
調子のよい日と調子の悪い日が一日単位で両極端だ。体調の話ではない。メンタルの話だ。そこに中間はない。なにがどう作用して『良い日』と『悪い日』の分水嶺になっているのかは、わからない。どうしたら『良い日』になって、どうしたら『悪い日』になるのか、いろいろと検証してきたつもりだ。睡眠なのか、運動なのか、食事なのか、天気なのか、なんなのか。ある程度の法則性はみえてきたかもしれない。でも、どんなに努力しようとも必ず『悪い日』がやってくる。人との接触を恐れている自分を発見する。誰ともしゃべりたくない。でも、状況がそれを許してくれない。ギクシャクする。そんな日は、ただ無難に過ぎてくれることをのみ考えている。つまり、全然楽しめていない。幸せでない。でも、そんな日があるからこそ、『良い日』に自由な感覚を楽しめるのかもしれない。自分の言葉
人はほんとうに自分勝手だから、一方的に判断して人を裁く。悪口を言う。理不尽だなと思うことも多い。すべての人に好かれることはできない。自分のやるべきことをやるのみ。僕は言うまい。「だれがどう言っているから。これが常識だから。」ほんとうに自分が感じていることを人まかせにせず、自分の言葉にする。人はほんとうに自分勝手だ。計画
なにかを整理整頓することの気持ちよさ。まず頭の中で考える。これをこっちに動かして、これを作ってから、このゴミを処分して…それ通りに事を進める。すべてが気持ちよく進行する。それってすごく快感だ。計画を立てその計画通りに成し遂げられることが好きだ。成功できそうなことを計画して、やってみることだ。一日のひと
まっさらな人間関係。相手がどんな人か探りをいれるような、仕草。良い印象を保ちたいとの思い。「あぁ、今日の自分はダメな日なんだなぁ」と思う日を何とかやり過ごして、また新しい一日をはじめる。一日の終わりは総決算。「いい日だったなぁ」と思える日がある。いまはそれだけ。人だなあ、と思う。両面
洗面所とキッチンの壁面タイルの目地が施工された。まー、オシャレ。イメージどおり。細部の粗さは確かにある。扉の収まりが悪かったり、床の傷、壁紙の破れもある。だが、そんなことを忘れさせるほどの全体の雰囲気の良さがある。居心地のよさがある。いい家になったのだ、という実感がある。早くかたずけを済ませ、全貌をここに公開したい気持ちはつのる。でも、ほんとうは誰にも見せずに妻と永遠にふたりじめにしたい気持ちもある。ここで、これから何十年も穏やかな生活が送れると思うとじんわりとうれしい気持ちがする。夫婦二人、ここまできたんだなぁと。反面、自分の悪いところ、物へ執着しすぎるところが顔を覗かせる。変に完ぺき主義なこと。物が傷つくことや、壊れることへの恐怖心。そんなことに怯えている僕がいる。そんな自分が嫌になる。そして、寝て起きると、自分を好きになっている。メンタルの安定感がほしい。


日常53
住む家を変えればすべては変わる。引っ越して初日、段ボールにまみれて目覚めた。引っ越しといっても、住んでいる場所は以前とほとんど変わらない。見慣れたいつもとおんなじ通勤路を通る。何か新鮮な感覚を覚える。同じ道であって同じ道でない。自分の感覚、とらえ方が変わったんだと理性ではわかっているが、何かその通っている道そのものが変わってしまったような、新しいまったく別な世界に投げ込まれてしまったような。パラレルワールド。何が違うと問われれば、具体的になにとは答えることができないが確かに違う。そんな不思議な感覚も翌日にはなくなってしまう。そして、それが当たり前だったように日常に溶け込んでいく。人は慣れる。適応する。この家は妻と二人で考えて、必死で大工さんに伝えて出来上がったと思っている。しかし本当にそうか。僕が考えた部分なんてあるのか。改めて、部屋を見回すとほとんど妻のセンスで出来上がっているような気がする。僕のセンスなんてものは所詮ニセモノ。もの単体でしか考えていない。本当に考慮すべきは全体の調和であって、単体ではない。その意味で、すごくセンスのいい家になったなぁと客観的に見て思う。こんなに段ボールまみれでも落ち着くのだ。むしろ、だからこそおちつくのか。何はともあれ、僕なりには考えてあこがれて、苦労して、家を一緒に作ったという感触がある。家に使われている部材ひとつひとつが二人の思い出につながっている。部材をショールームに見に出向き、吟味して採用する。その過程を思い出す。大工さん、職人さんの顔を思い出す。
日常52
今日の仕事はいい雰囲気で、楽しかった。しんどいの次には楽しいがくる。異動できてほんとよかった、。つらい時ほど、朗らかに。少しずつ、少しずつ進んでいく。僕の思いとは裏腹に少しずつしか進まない。あせるな焦るな。と言い聞かせる。明日は、リフォーム工事入るので楽しみ。きっとうまくいく、うまくいく。とか言いながら、不安渦巻く、巻く。口は災いの元。言葉はその人そのもの。一度、息と共に出た言葉は、いくら吸ってもなかったことにはならない。インテリアは単体で成り立っているのではなく、全体としてみたときにどうか。センスとは先天的なもの。いくら磨いたところで圧倒的なセンスの前にはなすすべもない。
