
暇な休日

昨日のアイナジエンドのYOUTUBEライブ最高によかったな。すべてを振り絞って後に何も残さない潔さみたいなものがあった。
さて、自分は4連休だが、筋トレと読書くらいしかやることがない。はっきりいって休日を持て余している。コロナでむやみに外出もできない。
なにに手を付けても「これじゃない」感がある。
そのくせ、「何かしなくちゃ」との強迫観念はしっかりとある。
数か月前から「言葉」とか「文章」というものに改めて興味がでてきて小説を読んでいる。
太宰とか、夏目漱石を読んでると、些細な日常感覚のニュアンスを伝えるのがうまい。
『たまに感じてたけど言語化して考えたことがなかったような感覚』を的確に伝えている。
そういう、普通は言語化しないような些細な心像風景を捕まえて離さない。
This is 文豪。『恩讐の彼方に』菊池寛と『グスコーブドリの伝記』宮沢賢治との類似性について
『グスコーブドリの伝記』を読み終わったとき既視感(既読感?)を覚えた。
二つの小説に関して、話の骨格は同じではないか。
ざっくりいうと、自らの経験を糧に主人公一人の頑張りによって多くの人命を救った物語である。
ただし、そのきっかけはまるで正反対である。
人を殺め、強盗を働き続けた償いとして、多くの人命を救うことで自らも救われることをもとめて行動する前者と、何も悪いことをしていないが、人々の苦しむ姿をみて純粋に自己犠牲の精神のもとに、自らの命と引き換えに多くの人命を飢饉から救った後者。
結果的に多くの人を救ったことに双方変わりはない。
ただ、前者は利己的な動機で、後者は利他的な動機で働いた。と自分には読めた。きっかけの時点ですべては決している。
それに関して、他人にばれようがばれまいが、自分を欺くことはできない。すべての物事はつながっている。時間は戻らない。
文章
何か文章を書こうと思っても、だいたいマイナスなことしか出てこないんだよね。
なぜだろう。
でも現実世界の自分はごきげんに日々過ごしていて、比較的無難に日々をこなしているよう。
どっちがほんとうなんだろう。
ほんとうは明るい話題を書きたいよ。
でも出てくるのは、薄暗い言葉だけなんだ。
誰かにかまってほしいという甘えなのかもしれないなぁ。
それか、カッコつけてるだけなんだ。何も書かないよりはましかもしれない。
日常55




日常54







スポーツクライミング
東京オリンピックのスポーツクライミング競技、男子決勝を見て思う。
果たしてこれでクライミングのおもしろさ、カッコよさ伝わったのか?
あまりにも、競技然としている。
みんなアスリートって感じ。
同じようなスポーツウェアきて、同じような動きが繰り返し映し出される。
課題もそう。もうこの動きをしてくださいと言わんばかり。
隙がなさ過ぎて、自由が入り込む、個性が入り込む余地が残っていない。
型にはめすぎなんじゃね。各選手の個性とかカッコよさが全然出てない。自由にすれば、競技として成立しないと言われればそれまでだが、
もっとこうカルチャーとしてのクライミングが少しでも伝わるようなものにできなかったものか同じく新種目のスケートボードやBMX競技をみていると、それら競技の独特なノリ、かっこよさ、自由さ
セッションの楽しさが伝わってきてうらやましくなる。
個性がある。僕の知ってるクライミングのおもしろさはもっと自由なものだ。
もっとゆるい感じが好きだ。
根本的な方向性が違う気がする。その世界にいないからこそ言える。
誰も読んでないブログだからこそ言える。
今自分がクライミングしてたら、絶対こうは思ってないだろうな。もっとポジティブな感想が出ていると思う。
負担
何ものかを犠牲にしたうえで成り立つこの生活。自分の生活は犠牲の上に成り立っている。誰かに負担を押し付けた上に成り立っている。
その上にのうのうと安住している。申し訳なくなる。
その押し付けた負担は、明日は我が身となる。
いい時期がいつまでも続くことはない。
出た日は必ず落ちる。
その落ち方が問題だ。
誰かの負担となって落ちていくのは嫌なものだ。
出来るだけ自分のうちに収めて、落ちたいものだ。側面
だいたいめっちゃ努力したつもりでも、やっと平均よりちょっと上くらいだった。
中学生あたりは、普通になりたかった。普通の友達を普通ぐらいに作って、普通ぐらい勉強ができて、無難に日々をやり過ごして早く何とかなれと思っていた。でも普通が難しかった。高校あたりになると良くも悪くもほっておいてくれた。ある程度自分の世界に閉じこもっていることができるようになった。
他人に相談した記憶がない。他人の意見を尊重しない。協調性が壊滅的にない。すべて自分で決めてきた。信頼できる友達なんて一人もいない。サイコパス野郎。
それでは、自分を良く言いすぎか。
一つの呪いに縛られている。
「やったらできる子」
やったらできる。当たり前だ。世の中のことなんて大抵はやったらできる。やるかどうかだけだ。
僕はやったらできるらしいから、ちょっとやってみるか。
と、ここまでやってきた。
どの程度のことはやったらできて、何ができないのかもわかってきた。自分の器ってやつ?
結婚もした、家も買った、一生の仕事も決まった。
子供はできなかった。
いろんなことが確定してきてる。
人生とは、未確定の物事が確定していく過程ではないのか。一つの側面。
別の側面を考えるとこれまで見ていた側が、すべて嘘に思える。恥ずかしいなあ。
落胆
矛盾している。自分の心にしまっておけない、心の狭い自分への落胆。なぜわざわざ言ってしまって、傷つけずにはおれないのか。自分の傷ついた心をわからせたい、知らしめたいがために、相手を傷つけるとわかりきっていることを、あえて言ってしまう。そして、言った後で、相手を傷つけたその後で、その姿を見て後悔する。消えてなくなりたくなる感覚になる。書くことで救われようとしている。書くことで許されようとしている。傷ついたこころは元通りにはならない。傷つけた行為はなかったことにはならない。森
「森で迷子になったら、どうしたらよいか。ただひたすらに一つの方角にまっすぐ進み続けること。それが正しい方角かどうかは問わない。いつかは、出口に到達できる。」
これは、自分にとって刺さる言葉であるが、どういう示唆があるのか。
「ある程度やることを見定めたら、それを継続してやり続けること。止まらずに少しずつでも前に進み続けること。途中でむやみに方向を変えないこと。」
方向性の正誤より、継続性。クオリティーの高低より、前進性。すでに、車輪は回り始めているし、前に進みだしている。今できることといえば、インプットとアウトプットの回転率を上げて速度を上げることくらいか。
じゃあ、森の出口とは何か。何をもって、出口に到達したとするのか。
自分の感覚を基準とするのか。他者の感覚(世間の評価)を基準とするのか。
森は、自分の感覚だけで決まるものではない。自分の感覚だけなら、次の瞬間には森から抜け、街にワープすることができる。そして、前進をやめるだろう。森の範囲は自分で決めるものではない。すでに決まっていて、森から抜けたときにはじめてそれを自覚できるのではないか。
