自分が大学時代に読んでいた本は、近代日本の思想書が多かった。今考えると、ある意味哲学書を読んでその人の哲学体系を学んでいたようなのものだが、底が浅かった。というより哲学体系というよりは人生訓というものの枠にとどまったものであった。

十数年たった今、西洋哲学を読んでいると、当時読んでいた体系とか処世訓の表面的なことが思いやられる。その考えや、行動がなぜいいかを突き詰めて考えることはせず、あくまでもそのほうが人生うまく行きますよ、楽に生きられますよ、と促しているものだったように思う。実は水面に現れているその考え方や、実践に到達するまでに、水面下では、膨大な哲学者たちの苦悩や、思索があることを知らなかった。

その水面下について、より根本的に世界の根源とは何か?自分とは?認識とは?、と突き詰めていくことが哲学という分野ではなかろうか。

カントからヘーゲルを経て、スピノザへと進んだ。そして興味はニーチェ、ドゥルーズへと向かっている。

興味はどんどん先に進みたがるが、現実にできていることは、一人一人の哲学体系の表面をなぞっている程度のものだろう。

本当に大切なことは、自分がそれらの書籍を読んでどう感じて、どう考えたか。

一度読んだことを忘れてもいいじゃないか。しょせん自分の記憶力では大して覚えてはいられまい。

でも、その本を夢中になって読んでいる瞬間は確かだ。

その瞬間に自分がこころから感動しておればいいではないか。