初回と比べて話される言葉の抽象度のギアが一段上がった。言葉がすんなりとは頭に入ってはこない。しかし注意して聴き返してみると抽象的な言葉は一つ残さず具体的なイメージに置き換えられていてきちんと理解できるように説明されている。とはいえ一度つかんだと思われたそのイメージも少し距離を置くだけですぐに頭から離れていってしまう。何度も何度も聴き返してそのイメージを定着させていく作業が必要になるのだろう。それだけの強度を伴った講義だと思った。
すでにリアタイを含め2回通しで視聴した。今頭に残っているのは講義内で何度も角度を変えて説明されていた橋と川の対比のイメージである。固定点を作るなというメッセージ。流れなんだと。両者の間に流れる『流れ』によって両岸が削られ地形がならされ侵食されていくイメージ。そのようなものとしての言語の冗長性。自分なりに漠然と受け取った概念の断片を並べてみるとそんな感じになる。
「言葉というもののもつ冗長性」を語る福尾さん自身の言葉がまさにその冗長性のもつ予測可能性を駆使した形で(まさにリゾームをその書自体の中で体現する『千のプラトー』のように)伝わってくる。
初回の感想でも書いたが福尾さん自身の生がまさにドゥルーズの哲学をそのまま地でいっているような感じ。
これから実際の第4プラトーをひとまず読んでみようと思う。すでに話の方向性はこの講義で明らかに示されており、今の状態でどれほど「読める」ものなのか。はたまたそれでも全然「読めない」ものなのか。まず一度原本に当たってみないことには始まらない。「いける気がする!」という感じは確かにあるし、初回の講義を聴いて「序ーリゾーム」は確かに読めた(気がする!?)。
上島珈琲店にて午後いっぱいの時間をかけて第4プラトーを読み切った。決して読めたとは思わない(思えない)。福尾さんいわく「文字を頭に流しこむ」だけでもいいのだ。それでいいのだというオプティミズムが大切で、頭に流れ込んできた文字列はほとんど意味をなさないままに流れ去っていく。それでもいくつかの概念がところどころで講義内容を想起させる部分に出くわす。それにしてもわずかなニュアンスが掴めそうな掴めなさそうなその程度の手応えではあるのだが。おそらくそのような実感値以上のガチャガチャしたものが私のなかに流れ込んできたように思われる。これがすべての面が違うルービックキューブをガチャガチャ回しているような感覚の一端なのかもしれない。とにかく読み切ったんだというだけで不思議と充実感がある。そんな印象の一読目を終えた。
通読できたということがなにより重要でそのことだけでもこの講座に参加した価値は十二分にあったし、通読させるだけの力が宿った講義であるということだけは確かである。
