いろいろと小説を読んでいると、作品によって引き込まれ度合いが全然違うことに気づく。
世間的に評価を受けている古典であっても、つまらなく読み進めるのが苦痛に感じるものもあれば、
物語に引き込まれ、喜怒哀楽を共有できるような気持ちになるような作品もある。
音楽と同じように合う、合わないがある。
自分にとって、苦もなく読み進めることができて容易に作品世界に浸れるような作品は言うなれば、
すでに自分のなかにある感情を再確認しているような、自分の過去の思い出に重ねているようなもので。
非常に心地よい体験になる。
対して、つまらなく読み進めるのに苦痛を感じるような作品は、これまで自分が体験したことがない、全く理解できない、共感できないようなものではないか。
読書体験としては、快よりも不快を感じるものになる。
どちらが良いというものでもない。
自分は日本の作家、海外の作家を問わずほとんど古典しか読まない。
確かに時代背景は全く違うし、思想や、一般常識など現代とは相いれないものがほとんどである。
しかしだからといって、そういった古典を楽しめないわけはなく、得るものがないわけではない。
それは、そういった古典が時代を超越するような普遍的なテーマを扱い、物語っているからではないだろうか。
たとえば、今から200年ほど前に書かれたフランスの小説(バルザック「ゴリオ爺さん」)でも、ほんとうにこういうことってあるよなぁ、と感心し、よく文章でこんな感情を表現できるなぁと感じるところがたくさんある。
それはつまり、人間の本質はいくら化学技術が発展しようとも、変わらない証拠ではないのか。
200年前の世界なんてよくわからないけど、今の日本では少なくとも
栄養失調で死んだり、飢饉で餓死するひとが大勢出るような状況ではない。
貧富の差が激しいのは今も昔も同じだろうけど、当時からみると、今の日本なんてキリスト教的にいうと救世主が現れた後の世界のように豊かで恵まれているのではないかと思う。
しかし、広く世界に目を向けてみると現代でも悲惨な状況にある地域はたくさんあるだろう。
そういった地域や、国を思うと自分たち日本人はそういった人々を食い物にして、自らの豊かさを享受しているような気になる。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で描かれるその他大勢の人々の犠牲の上に、無限とも思われる豊かさを何も知らずにのうのうと生きる自分というイメージが湧いてくる。
この先も人間の本質は変わらないし、誰かの犠牲の上に誰かの豊かさは成り立っているってこと。
知らんけど。