2022/10/11
凄まじく忙しかった。日中は次々と色んな人から声をかけられて、その対応だけで精一杯である。
それだけ頼りにされているということにしておこう。
ただ前日にヨガやストレッチポールで首、背中をほぐしていたからか、声の調子はよかった。それだけでどんなに忙しかろうが頑張れる。
と思う反面、そのように生活の面での辛さがなくなると、すぐに倦怠感、つまらなさが顔を覗かせる。この症状さえ治れば、もっとよい立ち振る舞いができる、もっとがんばれると思っていたが、いざ治ってみるとそんな思いは忘れてしまい、傲慢ささえ顔をのぞかせる。
難しいものだ。
自分が刻一刻と変化していることを感じる。
2022/10/13
ニーチェだって子供時代から独自の思想を展開していたわけではない。
最初はごくありふれた詩や自伝を書いていた。それをただひたすらに継続することで独自の思想に発展していったのだ。
ひとつ気づいた。
窓口でどなったり、理不尽なことをいう人の特徴。
目が濁ってる。澱んでる。黒目が薄い。
ひと目見たらわかる。
そういう人には注意しろということ。
2022/10/14
眠れはしたがだるい。
起きるのも遅くなりチャリも乗れず、読書。
頭がぼーとしてる。
今日もいろいろとあるのだろう。
色々と振り回されるのだろう。
社会の歯車の一つになり無理矢理回し続けられているということなのだろう。
でもそれもまたよし。
何をしたって、どうなったって問題なし。すべてはそれでよし。
振り回したければ、思いっきり振り回せばいい。そこから自分がまた何かを感じて、変わっていく。
精一杯一生懸命やるだけ。
2022/10/15
ニーチェの伝記を読んでいる。
おこがましくも自分自身を重ねてしまう部分がある。
ニーチェという人物はなんなのか。偉人なのか、天才なのか、凡人なのか。
なぜこれほどまで時代の、時の試練をくぐり抜け読み継がれているのか。
それほどの価値のある思想なのか。
もちろんそれだけではないが、ひとつは自分の思想をきちんと文字として、書物として残していたということ。
どんなに特異的な思想を内に抱いていた人物がいたとしても、文字として、書物として残していなければ、
あとの時代の人間はその人物の思想を知るすべはない。
ニーチェだって、子供時代から生まれ持って人類の歴史に残るような思想を抱いていたわけではない。
毎日毎日、何年も何十年もかけて本を読み、音楽や論文で表現をし、そんな気の遠くなるような積み重ねの上に
偉大な思想が生まれたのだ。
2022/10/16
日曜日。
休み2日目の今日は非常に安定している。
やっと自分を客観的に冷静に俯瞰する余裕ができている。
なぜ金曜日の仕事終わりから、土曜日にかけてはあんなにも心がざわめき、自分というものを悲観し、無くなって仕舞えばいいと自暴自棄に陥るのだろうか。
平日、仕事でそれこそいろんなひとの中で、いろんな思惑やら、苛立ちやら、猜疑心やら、ごちゃごちゃの荒波のなかで過ごし、本来の自分というものがなんだったかわからなくなってしまう。
自分は他人に気を使いすぎなのかもしれない。
もっと自由に、自分の仕事に集中すればいいのではないか。