
傲慢だ。
経験的に「快」「不快」を選別して、ある程度自分の意思で行動をコントロールしていると思っている。
例えば、瞬間的には「快」なことでも、長期的には「不快」なこともあるし、その逆もまた然り。
そして、自分にとっての「快」とは健康であったり、自信であったり、自分自身の状態に依拠している。
経験ということもまた、自分にとっては副次的な要素にすぎない。
ある経験そのものによってもたらされる「快」と、その経験によって自分自身の状態が良くなってもたらされる「快」は違う。
例えば、ある経験をしたことによって、自分自身が健康になったり、自信を深めることができたら、その経験は自分にとって価値のあるものである。
経験的に、そういった長期的に「快」を与えてくれる行動をとっているつもりでも、たまに徹底的に自信を喪失したり、不健康になったりする。
もちろん生活の全てを自分のコントロール下に置くことは不可能なので仕方がないと言って仕舞えばそれまでだ。
でも、そのような「悪い」状態の自分の時間をできるだけ短くしたい、と願ってしまう。
むしろ、そんな時間をこの自分自身から一掃してしまいたいと考えるのは傲慢か。
日常69

三宮を奥さんとぶらぶら。
たまたま、奥さんの弟夫妻も三宮にいることがわかってお茶した。
新婚さんのお二人はとても幸せそうで、こっちまで元気もらってうれしくなってしまった。
その後、ぶらついた。
街はあてどころなくぶらぶらするためにある。
街ゆく人々をぼーっと眺めてた。
久しぶりに今に戻ってきた感覚を覚える。
目が行くのは若いひと。
バスの中で、カップルをみた。
電車の中で、野球部らしき日に焼けた部活帰りのボウズ頭をみた。
なにかはわからないが腑に落ちた。
やはり人の写真を撮るのが好きだ。
いい顔している写真が撮れたら、その人のすごく貴重な瞬間を引き出せた気がしてうれしくなる。
撮っといてよかったと思う。








日常68






思いが弱い。
疲れているのだ。
疲れているから、つまらないのだ。
楽しむ余裕がないから、つまらないのだ。
何かしなくちゃいけないけど、何をしていいかわからない。
何にも価値を感じない。
無駄な時間を過ごし、虚しさは増していく。
あれをやってみようか、これをやってみようか、と思いは浮かぶが、その思いは行動にまで発展しない。
そういう時期もあるんじゃないの、と思ってみたりもする。
このままずっとこうなんじゃないの、と思ってみたりもする。
思いが弱い。
疲れたら、飯を食って、風呂に入って寝る。それだけでいいんじゃない。
それで、目が覚めたらまた頑張る。そういうもんでしょ。
タービン
リズムのある文章が好きだ。
日常のたわいない写真が好きだ。
書かないより書いた方が1000倍マシだし、撮らないよりとった方が10000倍マシ。
過去に書いた文章を読み返したり、写真を見返したりするとすごく安心する。
その安心感は文章や写真のクオリティに左右されない。
きちんとその瞬間を、その気持ちを保存できているという安心感。
ちゃんと生きた証明のようなもの、といえば大袈裟か。
どうせたわいもない、ちっぽけな存在なら、みんな笑っているほうが良いではないか。
悲しんでるより、喜んでる方が良いではないか。
表面的には上手いけれど、自分らしさがにじみ出ていない写真や文章に存在価値はない。
どうせなら救いようがないほど下手くそだけれども、自分というものがあふれ出ているものを表現をしたい。
やることがなければ本を読めば良い、眠れなければ本を読めば良い。本を読むのに飽きたら筋トレをすれば良い。
読書は自分の認識が偏狭であったことを自覚させてくれる。筋トレは自信を与えてくれる。
一度回り出したタービンは簡単には止まらない。
モーパッサン「女の一生」
①作者は何世紀、どの国の人か
19世紀フランスのノルマンディー地方の裕福な家庭に生まれた。
ギュスターヴ・フローベールの弟子。
②その時代のその国では何が起こっていたか
普仏戦争
フランス革命によって、王政は崩壊し、19世紀の貴族に昔のような栄華はない。
教会もまた力は絶対ではない。名誉や宗教といった旧来の価値観が揺らぎブルジョワという新しい階級が誕生し、「お金」という新しい価値観が全てを支配し始める。
③あなたが本の中で最も印象的だった場面はなにか
主人公ジャンヌが夫の不倫などから、「人間」そのものに対する幻滅を感じ、軽蔑し、「こんなはずではなかったのに」と回顧する。最後の一文でロザリがいう言葉「ねえ、ジャンヌ様、人生ってのは、皆が思うほど良いものでも、悪いものでもないんですね。」
ジャンヌにとって人生とはどう考えてもよいものではなかったはず。
最後、孫を抱いたことでそれまでのマイナスが一気に帳消しになったとでもいうのか。
④あなた自身が最も生きにくく感じていることはなにか
自分自身のメンタルが安定しないこと。
⑤この本を読み終えたあとで、世界とあなたとの関わり方はどう変わったか
新婚旅行から帰ってくると”するともう何もすることはないのだ。今日も、明日も、また永久に。という心境になるジャンヌと自分自身を重ねてしまう部分がある。
なにか自分にとって大切な価値観や、傾倒する対象をつねに追い求めている感覚に対する共感。
最終的に「ねえ、ジャンヌ様、人生ってのは、皆が思うほど良いものでも、悪いものでもないんですね。」という最後の言葉に導かれる。人生に価値のあるものなんて何もないんですね、といっているように思えてしまう。ただ過ぎていくものなんですね、と。
⑥作者はいつ、どのように死んだか
1878年ごろから神経系の病を抱えた。神経衰弱、頭痛、不眠、さらには自らの二重性に苦しんだ。その苦しみから逃れようと麻薬に手を出し、症状が悪化。精神病院への入退院をくりかえす。さらには自殺未遂までするようになり、デビューからわずか十余年、42歳の若さで死去。
⑦その本は現代までにどのような受容のされかたをしてきたか、そしてそのことについてあなたはどう思うか
ジャンヌが一方的に可哀想という見方は少ない。
むしろ、主体性がなく自らの運命を自らで切り開く行動に出ることもなく、夫の言いなり。
自業自得である的な見方も多い。
「アーサー王物語」のなかのひとつ「ガウェインの結婚」にある逸話、「すべての女性が最も望むことは何か」
それは「自分の意志をもつこと」であるという話、ジャンヌには女性の最も望むことであるはずの意志をもつということが足りなかったのか。
⑧ハイライト
「ジャンヌは、夫と自分とのあいだが薄布で隔てられているかのように感じていた。二人の人間が、本当に魂の底まで、思いの奥底までひとつになることはできないのだと、ジャンヌは初めて思った。肩を並べて歩き、ときに抱き合うことはあっても、ひとつに溶け合うことはなく、心の底では誰もが生涯一人ぼっちなのだ」
「夫に見捨てられたのに、それほどつらいと思わないのはどうしてだろう。人生なんてこんなものなのだろうか。この結婚は間違いだったのだろうか。もうこの先、自分の人生には何も残っていないのだろうか。 もし、ジュリアンが美男子のまま、身だしなみに気をつけ、エレガントで魅力的だったら、二人の関係が冷めたことをもっと嘆いただろう」
「男爵様、あなただって、遊んだことはあったでしょう。胸に手をあてて考えてごらんなさい。どうでしょう」ぎくりとした男爵は神父の前で足を止める。神父はさらに続ける。「ほら、あなただって皆と同じようなものでしょう。あなただって、あの娘のような女中に手を出したことがないとは限らない。ねえ、皆同じようなことをやっているんですよ。だからといって、あなたの奥様が不幸だったとか、奥様への愛が減ったとか、そういう話じゃないわけでしょう」 動転した男爵はそのまま動かない。 そうだった。確かに、そうしたことがあった。しかも何度も。機会がありさえすれば、そのたびに。同じ屋根の下にいる妻のことなど考えなかった。きれいな娘がいれば、妻の身の回りを担当する女中だろうと、躊躇することなく手を出した。自分も卑怯者なのだろうか。どうしてジュリアンの態度は許せなかったのだろう。自分だって、同じことをしたのに、それが罪だとは考えさえしなかった」
「そう、自分だって彼を「良い方」だと思ったのだ。だからこそ、自分は彼の前に身を捧げ、生涯を共にする契りを結んだ。だからこそ、結婚以外のすべての希望を捨てた。あらゆる計画を諦め、将来に残されていたすべての可能性を捨てたというのに。彼女は結婚という穴に落ちたのだ。這い上がろうにも 縁 のない穴。惨めで悲しい絶望の穴。それもこれも、ロザリと同じように、彼を「良い方」だと思ったことから始まったのだ」
日常67











誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさ
いろいろと小説を読んでいると、作品によって引き込まれ度合いが全然違うことに気づく。
世間的に評価を受けている古典であっても、つまらなく読み進めるのが苦痛に感じるものもあれば、
物語に引き込まれ、喜怒哀楽を共有できるような気持ちになるような作品もある。
音楽と同じように合う、合わないがある。
自分にとって、苦もなく読み進めることができて容易に作品世界に浸れるような作品は言うなれば、
すでに自分のなかにある感情を再確認しているような、自分の過去の思い出に重ねているようなもので。
非常に心地よい体験になる。
対して、つまらなく読み進めるのに苦痛を感じるような作品は、これまで自分が体験したことがない、全く理解できない、共感できないようなものではないか。
読書体験としては、快よりも不快を感じるものになる。
どちらが良いというものでもない。
自分は日本の作家、海外の作家を問わずほとんど古典しか読まない。
確かに時代背景は全く違うし、思想や、一般常識など現代とは相いれないものがほとんどである。
しかしだからといって、そういった古典を楽しめないわけはなく、得るものがないわけではない。
それは、そういった古典が時代を超越するような普遍的なテーマを扱い、物語っているからではないだろうか。
たとえば、今から200年ほど前に書かれたフランスの小説(バルザック「ゴリオ爺さん」)でも、ほんとうにこういうことってあるよなぁ、と感心し、よく文章でこんな感情を表現できるなぁと感じるところがたくさんある。
それはつまり、人間の本質はいくら化学技術が発展しようとも、変わらない証拠ではないのか。
200年前の世界なんてよくわからないけど、今の日本では少なくとも
栄養失調で死んだり、飢饉で餓死するひとが大勢出るような状況ではない。
貧富の差が激しいのは今も昔も同じだろうけど、当時からみると、今の日本なんてキリスト教的にいうと救世主が現れた後の世界のように豊かで恵まれているのではないかと思う。
しかし、広く世界に目を向けてみると現代でも悲惨な状況にある地域はたくさんあるだろう。
そういった地域や、国を思うと自分たち日本人はそういった人々を食い物にして、自らの豊かさを享受しているような気になる。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で描かれるその他大勢の人々の犠牲の上に、無限とも思われる豊かさを何も知らずにのうのうと生きる自分というイメージが湧いてくる。
この先も人間の本質は変わらないし、誰かの犠牲の上に誰かの豊かさは成り立っているってこと。
知らんけど。
リスクをとること
どうなるかわからない状態は不安だ。
とにかく早く決めてしまいたくなる。
少しでも早く迷いの中にある状態を脱して、何らかの結論を出してしまいたいという誘惑に駆られる。
しかし、大抵そういう時に焦ってことを急いでも良いことはない。
耳を澄まして、目をこらして待っていればここぞという瞬間はやってくる。
そのタイミングを絶対に逃さないこと。
待たねばならない時は待たねばならないのである。
それもまた一興と思える強さを。
わくわくするリスクをとって、そのあとで必死に考える。
リスクをとれば、考えざるをえない。
道が二つに分かれた時、危険だと思うほうに賭けること。言うは易し、行うは難し。
リスクがあるとわかっていても、どうしてもそうせざるを得ない気持ちになる瞬間がある。
その結果、自分が困った状況になったとしてもそれは自らの成長のための機会であるし、絶対にあきらめなければ必ず解決案はでてくる。
その時点であらゆる方法を検討しても、良い選択肢がなければ待ってみるということもひとつの選択である。
バルザック「ゴリオ爺さん」
社交界のイメージを勘違いしていた。
社交界での成功とは、その人物の社会的な成功を意味するものであって、その世界での成功は金、地位、名誉、その他もろもろのありとあらゆる人間の欲望の対象となるものを獲得することを意味し、決して趣味的な、副次的なものではない。
要はその世界線では、金、家柄、仕事、社交界での地位、といったようにその人物のステータスを測る重要なファクターのひとつであり、社交界での成功はその人物の一生を左右するほどのインパクトがあったのだということ。
社交界での成功によって、地位も名誉も、富も得ようと野心に燃える青年ラスティニャック。
誠実な心を忘れられず、冷淡になりきれない気持ちと女性との交際を利用して社交界でのし上がるために女性を踏み台にしていくくらいの気持ちにならなくては、との気持ちの狭間で揺れる。
究極的な選択を迫る場面や、決定的な状況をつくりだす状況設定とストーリー。
優れた小説とは緻密に考え尽くされたストーリーと、人物、場面設定により、生み出された極限状態における人間の意思決定の過程とその決断により生じる結果。
文学とは愛、友情、家庭、仕事などのようなものから人間そのものを描き出そうとするものである。
いうなれば、人間のサンプルブック。
ゴリオ爺さんが最後、実は娘に愛されてないと気づいていたと告白する。
そして、死んでゆく。
切ない、そこはかとなく切ない。
実は愛されていないと気づきながら、自分の人生全てを投げ出して愛さずにはおられない。
父性愛の極地。
