経験的に「快」「不快」を選別して、ある程度自分の意思で行動をコントロールしていると思っている。

例えば、瞬間的には「快」なことでも、長期的には「不快」なこともあるし、その逆もまた然り。

そして、自分にとっての「快」とは健康であったり、自信であったり、自分自身の状態に依拠している。

経験ということもまた、自分にとっては副次的な要素にすぎない。

ある経験そのものによってもたらされる「快」と、その経験によって自分自身の状態が良くなってもたらされる「快」は違う。

例えば、ある経験をしたことによって、自分自身が健康になったり、自信を深めることができたら、その経験は自分にとって価値のあるものである。

経験的に、そういった長期的に「快」を与えてくれる行動をとっているつもりでも、たまに徹底的に自信を喪失したり、不健康になったりする。

もちろん生活の全てを自分のコントロール下に置くことは不可能なので仕方がないと言って仕舞えばそれまでだ。

でも、そのような「悪い」状態の自分の時間をできるだけ短くしたい、と願ってしまう。

むしろ、そんな時間をこの自分自身から一掃してしまいたいと考えるのは傲慢か。